こっそりと補足(05 5/3)


 昔書いた文章から。


 陰流と関係付けられ諸書に名前を見る愛洲移香だが、その来歴について書かれたものは断片的なものばかりだった*1。名前一つとってもそれぞれ表記に僅かずつ違いがある*2
 それが昭和に入り、愛洲移香の子孫という人物が名乗り出て、同家に伝わる『平澤家傳記』(内題『平澤氏家傳』 以下『家伝』)が「発見」された事でその来歴がある程度まで明らかになった。
 昭和9年(1934)秋田市の平沢波治氏が愛洲氏の末裔として名乗り出た経緯は大西源一の「南朝の隠れたる勤皇家伊勢愛洲氏」に詳しい。
 昭和9年(1934)7月15日に、大西源一が三重県度会郡の五ケ所小学校において愛洲氏の講演をした時、移香斎について触れ、愛洲氏の一族の中に移香斎という武芸者がいて今回その子孫が秋田から名乗り出たとしている。
 その名乗りに至る過程を大西はこう記す。

 愛洲氏の子孫と云ふものは、如何なりましたか。これまで少しも知られなかつたのでありますが、近頃其のたしかな子孫の方が、秋田市に現存して居られることが明らかになりました。今年(私注 昭和9年(1934))三月、名古屋中央放送局の計畫にかゝる、建武中興六百年記念講座に於て、一日私は「南朝の東藩閼國伊勢」と云ふ題の下に、三十分の公演を致しまして、丁度幸ひ全國中繼でありましたゝめに、秋田市の平澤波治と云ふ方が、それを聞かれて非常に喜ばれ、愛洲氏の子孫は自分である、記録類も所持しているからと云ふ書面を下さいました。
―中略―
 平澤家ではこれを動機に、更に、庫中を捜索されましたところが、其の祖(私注 原文旧字)先愛洲移香(又推孝、名は久忠)と云ふ方の、自筆の兵法の書き付や、其の子の美作守(宗通)及び修理亮(宗通)と云ふ方へ、佐竹義重が兵法の入門をされるに就て差し入れられた、永禄七年八月九日付の起請文と書鏐、其の次代の義斯公の天正十年六月十三日付、元香斎(宗通愛洲)同じ小七郎(常通)連名宛の起請文などの、當時の實物が現れまして、それを吉川さん(私注 平沢波治氏の娘かその旦那かと思われる)がわざ/\持つて来て、見せていたゞきました。


南朝の隠れたる勤皇家伊勢愛洲氏」(大西源一『南朝之砥柱』所収,愛洲顕彰会,1935.p.179〜180)

 この講演は後に『南朝之砥柱』に収録され、秋田に平沢家という愛洲氏の子孫が暮らし、同家に系図などの古文書が伝わる事を世に紹介した。上記のようにこれらの古文書を大西源一は一瞥したようであるが、その後、詳しい内容を世に紹介することはなかったようである。
 これに続いて、昭和10年(1935)に武術研究家の青柳武明が原資料を元に、『歴史公論』の10月号に「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」という小論文を発表した。この小論文内で青木は「平澤家傳記」、及び「摩利支天ししやの事」という文章について言及し紹介している。
 この他、時代が少し遡るが、大正12年(1923)年4月21日、22日の二日にわたって『秋田魁新報』に掲載された記事がある。これは山東庵という人物によって書かれたもので、「平澤氏家系」(上)(21日)(下)(22日)となっている。記事には『家伝』の持ち主である「平澤波治」氏の名前が出ている。文中で明示してはいないが内容から鑑みるに、どうやらこの山東庵という人物は『家伝』を読んだらしく、記事の中で初代久忠から八代通有までの履歴を記し、他に平沢家の分流、そして幕末の戯作者朋誠堂喜三二(手柄岡持)こと平沢平格常富の事を紹介している。


 また、中世古祥道によれば、中村佐助の『愛洲氏研究序説』の中で、平沢家の書簡(「秋田市亀之町西土手町平沢波治の系図による愛洲氏」)を紹介しているというが、平沢家に伝わる全ての古文書が掲載されているわけではなく、わずかな部分を伺うしかなかったようである。
 その後、平沢波治氏は昭和14年頃他界し、残された婦人は同家に伝わる伝書を携え、当時満州へと渡っていた令息(現当主、平沢尚忠氏)のもとへ疎開したのだが、敗戦により満州から引き揚げる際の混乱の中でかなりの量の古文書が散逸したという。この時、少なくとも『家伝』は失われたようである。しかし、調査時にかどうかは判然としないが、平沢尚忠氏によれば、青柳武明が原本を筆写して残しておいてくれたという。これにより現在も『家伝』の内容を伺うことができるが、ここで一応留意しておく点は原資料となるものは殆ど失われたということだろう。

*1:出生地、流派名の表記、「カゲ流」を開眼した場所、縁起などなど細部でかなりの違いを見せる。

*2:例えば『月之抄』(1642)では「アイスノイクワウ」「愛州之移香」。『異称日本伝』(1688)では「日向守愛洲移香」。『平澤家傳記』(1600年代後半から1700年代初頭?)では「愛洲日向守久忠」。『本朝武芸小伝』(1714)では「愛洲惟孝」。『柳生雑記』(1717?)では「日向愛洲移香」『玉栄拾遺』(1759?)では「愛洲日向守藤原意故」。『撃剣叢談』(1843)では「愛洲移香」。『当流由来の巻』(?)では「愛洲藤原惟孝」。『兵法論』(江戸後期?)では「愛洲移香」。『新陰流兵法外伝』(江戸後期?)では「愛洲日向守移香」などなど。