愛洲家と柳生家


 『平沢家伝記』(『平沢氏家伝』)という書がある。
 秋田県の平沢家に伝わるもので、1600年代後半から1700年代初頭に書かれた*1と思われる書である*2。そこには平沢家の初代から、著者の父に当たる七代目までの伝記が記されてある。
 それによれば「第一世久忠伝記」として次のようにある。
 「愛洲太郎 左衛門尉 日向守」は享徳元年(1452)に生まれ、天文7年(1538)に没した。法名移香斎。また「家傳ニ曰く」として村上源氏北畠氏の末裔として代々伊勢国に暮らしたとある。(三重県郷土史家であり「愛洲一族」の研究者でもある、中世古祥道氏は「清和源氏武田氏」の末裔でなかったかという)


 陰流という流派がある。
 一刀流と共に江戸期の剣術界を二分した、新陰流の源流である。
 上泉武蔵守信綱が柳生但馬守宗厳に送ったという「影目録」にこうある。
 「予究ニ諸流奥源一於ニ陰流一、別抽ニ出奇妙一号ニ新陰流一」
 (予は諸流の奥源を極め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流と号す)
 このように、信綱は陰流を新陰流へと変化させ、それを柳生但馬守宗厳に伝える。これが後世、柳生新陰流と呼ばれることになる流派の誕生である。


 愛洲移香斎久忠は*3この陰流の開祖と伝わる人物である。


 森岡浩『日本名字家系大事典』で「愛洲」の項を引くと「紀伊愛洲氏と伊勢愛洲氏がある。清和源氏出か」として、以下、三つの愛洲氏を示している。

紀伊愛洲氏
2伊勢愛洲氏
3相模愛洲氏

 本文では紀伊愛洲氏と伊勢愛洲氏を同族とし、伊勢愛洲氏は延元4年(1339)、後醍醐天皇から伊勢国朝明郡菫生御厨の地頭に命じられ、南朝の臣として市之瀬城に入ったが、のちに北畠氏の重臣となって応永年間(1394〜1427)中に田丸城に移り、その後、宝徳年間(1449〜1452)中に五ケ所城に移るが、天正4年(1576)、愛洲重明の代に織田信雄に破れ落城したという。

 また『伊勢名勝志』では、「度會郡・城砦及宅址」の「愛洲城址重明宅址」を紹介して、「五ケ所浦字城山ニ在リ平坦ニシテ雑木茂多シ天守臺濠壘古井ノ址ヲ存ス古老傳エ云フ中世愛洲氏之ニ居ル重明ノ時北畠具教ト戰ヒ天正中城陥ルト或ハ云フ重明北畠氏ノ女ヲ娶リ既ニシテ京師ノ舞妓ヲ寵ス遂に北畠氏ト隙ヲ生シ其滅ス所トナリ志摩迫子村ニテ自殺ス」と書き、他に愛洲氏の城跡として「下村城址」と「脇出城址」を紹介している。


 ③の相模愛洲氏については、戦国時代の後北条氏家臣に愛洲氏がいるが、熊野の出身といい、相模国三浦郡に住んだという。この一族からは浦賀水軍を率いた愛洲兵部小輔が出ているのだが、巷間に愛洲移香斎久忠を和冦と関係があったようにいうのはあるいはこのせいかもしれない。

 また、太田亮『姓氏家系大辞典』では、紀州武田系譜を引き、一致し難き点もあると留意の上で、愛曾と同じだとしている。この「愛曾」とは太平記に見ることのできる名前である。


 『太平記』「巻第14 節度使下向事」に「愛曾伊勢三郎」という名前が見え、また「巻第14 矢矧、鷺坂、手越河原鬪事」に「愛曾伊勢守」が新田義貞の陣に加わる話があり、「巻第14 箱根竹下合戰」では「愛曾」という者が戦いに加わっている場面がある。
その他「巻第17 江州軍事」に「伊勢ノ愛洲」が敵を倒したとあり、「巻第29 光明寺合戰事付師直怪異事」に「愛曾伊勢守」という名が見え、また「伊勢ノ愛曾」が召し抱える童に伊勢大神宮が乗り移り、託宣したという話が見える。
 また「愛曾伊勢守」に付けられた注によれば『難太平記』に「伊勢国あいそという大力の者」がいたとし、『紀州武田系図』を引き、伊勢・紀伊にいた武田氏の一族らしいとしている。中世古祥道氏は「愛洲移香斎久忠はこの伊勢愛洲氏の出身ではないか」としている。
(この『太平記』は「後藤丹治 釜田喜三郎校注『太平記(一、ニ、三)日本古典文学大系(34、35、36)』岩波書店」を使用)


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aisu_kz.html
 今日、ここを見ていて次のような文が目に止まった。

このとき、後醍醐天皇に心を寄せる河内の悪党楠木正成は、赤坂城に拠り幕府軍に反旗を翻した。このとき、南部の愛洲憲俊とその子能俊は、大塔宮・正成らとともに赤坂城に篭城してともに戦った。しかし、幕府の大軍の前に城は落ち、大塔宮は紀州へ、楠木正成はいずこかへ姿をくらまし、愛洲父子は南部に落ちていった。

 つまり愛洲氏は南朝と関係があったという事になる。


 ところで、柳生家の歴史を伝える書に『玉栄拾遺』というものがある。
これは神代から、宝暦3年(1753)までの柳生家の系譜を綴ったものであるが、その中、播磨守永珍の項に興味深い話がある。
 武林伝(恐らく『本朝武林伝』)に曰くとして伝える話によれば、後醍醐天皇笠置寺に入ったとき、南に木がある夢を見たという。帝はこれを「楠」と読み解き、「この辺りに楠と称する者はいないか」といったところ、笠置寺の衆徒中坊という者が進み出て「河内国金剛山麓に楠多門兵衛正成という者がいる」と答えた。これにより、後醍醐天皇楠木正成が出会い建武の新政がなったわけだが、この中坊という者は柳生家の庶子であり、播磨守永珍の弟だった。この頃柳生家は所領を失っていたが、中坊の働きにより旧領を取り戻し、中坊はこれを兄に譲り以来永珍の末がこの地を治めたという。
 そしてこの永珍の後、八代目に生まれるのが柳生宗厳である。


 さて、長々と書いてきたわけだが、要するに、愛洲の姓を持つものと柳生の姓を持つものが後醍醐天皇の側で会っていた可能性があるということ。
無論この愛洲が直接愛洲移香斎久忠と関係あるか分からないし、家伝にあるだけで柳生が南朝として戦ったかも分からないのでただの妄想なのだけど。何というか、これって萌えかなとか。
 愛洲と柳生って、上泉を媒介にしてしか繋がっていないと思っていたので、それ以前に、後醍醐天皇(乃至、楠木正成)を媒介にして繋がると知って少し驚いたので。山田風太郎とか隆慶一郎がこの関係を書いてくれてたら嬉しかったなぁ…。最近だと、宇月原晴明とか荒山徹、海道龍一朗辺りに書いて欲しい。短編で良いので。読みたいなぁ。

*1:私は元禄11年ではないかと思う。何故というに平沢家は秋田藩なのだが、秋田県公文書館が出している『秋田藩家蔵文書目録』の中に『平沢家伝記』と同じものだと思われる文書〈『平沢氏覚書』『平沢氏系図』〉があり、そこに元禄11年2月26日とあるようなので。ただ筆者の名前が異なるのだけど。

*2:あと、特に寛永期や寛政期に幕府が祖先を偲び墓参や歴史、伝承を調査するため大名や旗本に系譜を提出させたことなんかもあって、秋田藩でもこれを契機に旧領の常陸を訪れ、長期滞在して家譜の調査に当たる藩士もいたらしく、同藩では元禄10年藩主が岡本又太郎元朝を「御文書改奉行」に任命して、その下に大小姓の大和田内記時胤、御右筆組の仲村与助光得、大島小助重為、羽生惣左衛門、木内治右衛門らを付属させ、歴代の家譜編纂事業に着手している(『常陸太田市 通史編』p437 秋田藩紀年)ので、もし違ったとしても『平沢家伝記』もこの時作られたのでは思っているので、まあ、この時代辺りじゃないかと。

*3:愛洲移香斎久忠については三重県立図書館(http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/index.html)の地域資料ミニ展示コーナー「愛州移香斎久忠」(http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/data/mini/aisu/aisu.html)が良くまとまっていて参考になる。