寒中の悪魔―あるいは酷い悪寒

 就寝前に吉田健一『日本に就て』(筑摩書房)を読んでいると「小休止」という小文に出会う。評判の店の御馳走を前に道草をして、他の店で食事をする、というだけの話し。それだけの話しなのだけど面白い。
 期待だったり心急くようなところに緩みを与えて、引き伸ばし、その引き伸ばされた時間の中に揺蕩うような、常に、ある楽しみを先送りにするような贅沢な時間の使い方を書いた文章かと思いきや、やらなければならない事を先送りにしてその中で何かやることの楽しさを描いているような気もして、最後まで読むと、あるいは、義務的な会合にでることの苦痛を書いているのかとも思い、もしくは楽しみではあるのだけどその楽しみというのが義務と不離である事を厭うているような、あるいは楽しみが楽しみとしてすでに決まってしまっている事が面倒くさくて、実際にその場にいって、気分の針が楽しさに振れるか面倒くささに振れるか分からない状態で気分を曖昧にしたままに時間を引き延ばす事の愉楽を描いているというか。
 読んでいるうちに、何を言っているのかよく分からなくなってくるも、「どこか詭弁のような気もするが、はっきりどこか詭弁なのか、今の所まだ気が付かないから、ここではこのままにして置く。第一、どうでもいいことで」と言われちゃ、そういうものですかと思ってしまう。

 「澄ましのスープにソーダ・クラツカーを浮かせた」のや、「マカロニ」「ひらめのフライ」といったそこに描かれた食べ物が美味しそうなのは何時ものことだけど、その白眉は「キツドネー・オン・トースト」。

 手軽に出切る料理を目の前でやつて見せて貰ふのは、妙に食感を唆るものである。牛の腎臓をただいためたのを、揚げたパンの切れ端に載せて出す料理があつて、この店でも時々頼むことがあるが、これなども、腎臓がフライパンの中で見てゐるうちに焦げ茶色になり、もつと黒い色に変わって膨れ上り、はち切れさうになつて、表面が旨そうな潤ひを帯びて艶々して来るのは、何か心を豊かにしてくれる。それを口に入れる時期が次第に近づいて来るのが、はつきりと解るからだらうか。何もなかつた所にフライパンと牛の腎臓が現れて、瞬く間に、と言つても、さう気忙しくはない間隔を置いてキツドネー・オン・トーストが出来上がる(この店では、その料理をこう呼んでゐる。)実りの観念がそこで掴めるのだと思ふ。実りと、祈りは語源が違うのだらうか。


吉田健一『日本に就て』(p211)

 それにしても食べすぎではないかと思う。


 翌朝電車の中で恩田陸『酩酊混乱紀行『恐怖の報酬』日記』(講談社)を読んでいると昨夜読んでいた本の作者の名前がいきなりでてきて一寸驚く。恩田陸吉田健一を好きなのは知っていたが、べた褒めである。嬉しくなる。

 私が強く印象に残っているのは、井の頭線で席を譲られたおじいさんだ。高齢ではあるが、背筋も伸びていてびしっとスーツを着て、ソフトの中折れ帽をかぶっていた。譲ったほうはいかにも気のよさそうな大学生くらいの兄ちゃんだったが、その時おじいさんは。スッと中折れ帽を上げて会釈し、「恐縮です」と言ったのである。
 思わず周囲の人がハッとしたほど、その「恐縮です」という言葉が美しかった。譲った青年も、その言葉にぼーっとした顔をしていたくらいだ。いい言葉だなあ、と思った。私も使いたいと思ったが、これってやっぱりじいさんが使ってサマになる言葉だ。ばあさんの場合は「恐れ入ります」か。
 この次は吉田健一みたいな、どこの国のバーに一人で座っていても違和感のない(もしくは強烈な存在感のある)、凄まじく教養のある、そのくせ胡散臭い、チャーミングで食えないじいさんに生まれたい(もとい、いきなりじいさんとして生まれるのは無理なので、そういうじいさんになれる境遇に生まれたい)。


恩田陸『酩酊混乱紀行『恐怖の報酬』日記』p167〜168

 「凄まじく教養のある、そのくせ胡散臭い、チャーミングで食えない」というのはまさに素敵なじいさん三か条ともいえるもので更に言えば「陽気で、坦々として、而も己を売らない」ような人だったり、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていたり、飄々としていたり、枯れ木のような風貌をしていたり、諧謔精神にとんでいたり、頑固であったり、危険の中でも滲みでる稚気に溢れていたり、と相互には矛盾するイメージのどれかを満たしているその上で更には武芸の達人だったりしたらここに極まりというものだけど、咄嗟に思い浮かぶのは物語だと『吉原御免状』の幻斎、『百鬼夜行抄』の飯島伶で、実在の人物だと、本人や周りの人たちの文章からつくられたイメージではあるにせよ繰り返し触れる事でまるで近しい人物のように思えてくる吉田健一隆慶一郎山田風太郎小林秀雄綿谷雪内田百輭幸田露伴森銑三花田清輝石川淳山本夏彦といった面々に加え私は自分の祖父のイメージなんかも加えたりしてしまうのだけど、自分がそういった素敵なじいさんを目指すというのは、すでにそう思うだけで驕っているというか恐れ多いというか色々ともうすでに手遅れで無理なので、それこそ「いきなりじいさんとして生まれるのは無理なのでこういうじいさんになれる境遇に生まれたい」という他力本願な思いを抱いてしまう。目指すものではなく自然にそうなっていたいものだ。いやはや。嗚呼どこかにこのじいさん萌え分を満たすような素敵なじいさんはいないものか。それはそうとこのエッセイ、いわゆるエッセイに見られる、「日常を離れた中で、普段は気づかなかったことに気づいた」だったり、「旅の中で日常無反省に見過ごしていることをあらためて考えてみる」だったり、妙に歯切れの良い文明論的なところが多少鼻につく。わざとらしいというか。エッセイらしいエッセイを書こうと無理な力が入っているような印象を覚え、少し白けてしまう。訪れた土地で持ったイメージから物語が立ち上る瞬間を描くところは面白いのだけど。例えばタラの丘で見る「いつか描かれる物語のイメージ」だったり、「世界のあちこちに、お話の欠片が放置されたりするが、それを首尾よく見つけ出せることもあるし、ちっとも見つからないこともある。私がやっているのは、きっとそういう商売なのだ」という美しい物語論とか。


 そんな思いを抱きながら須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(白水Uブックス)に移ると、政治的な結婚をして未亡人になった「さりげなく自分の生まれを誇示するような、血族どうしの甘えのようなニュアンスがうっすらと感じられる」ような婦人がでてきて、筆者はその婦人の事を「彼女には歴史のカリカチュアのような自分の運命を知的に把握するだけの能力もシニシズムもなかった」と書き、こういう、自分が何かの戯画のようにある事を苦笑できる能力が恐らくは「知性」なのだろうなと思い、よく老いるには知性が必要であるのだなと一人電車の中で頷き、そういった思いを抱かせるこの文章にこれぞ名文と感じ入りながら読み進め、切りの良いところでページを閉じ、鞄の中から狐『野蛮な図書目録 匿名書評の秘かな愉しみ』(洋泉社)を取りだし目次をぱらぱらと見ているとそこに須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文藝春秋)を見つけてしまい、読んでみると末尾に「ただならぬ筆力だが、それを名文とか美文とか呼んではならない。そう呼ぶことは、この本のもっとも精妙な部分を汚れた手で汚すような気がする」とあり、つい今さっきその「精妙な部分」を「汚れた手で汚」してしまった人間としてはいやそんなこと言われてもと頭を掻いてしまう。