目にはさやかに見えねども さんま苦いか塩っぱいか そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて さんまを食ふと 風の音にぞおどろかれぬる


 というわけでいつの間にやら気がつくと季節は秋なわけで、西炯子流に言うと「ああ今年の夏も何もなかったわ」ってなもんや三度傘。ついさっきようやく読んだ『STAYラブリー少年2』の最後に不満たらたらというか、いや物語のスジとしてこういう終わり方は全然許容内でありなんら問題はない、というか全然おっけーなのだけど、あれだ、佐藤だ。佐藤が幸せになるのが許せん。佐藤はもっと不幸であるべきではないのかと、ファムファタルであるところの山王みつるにもっと振り回され不幸を味わうべきではないのかと、思わず友人にメールしそうになり暫く考えて思いとどまるくらいには憤ってしまう。


 先月から今月にかけてたまたまこちらの懐がほのかに温まっているところを察知したかのように好きな作家さんの本が大量に出まくりやがって嬉しく慟哭。志村貴子放浪息子④』、雁須磨子『連続恋愛劇場』、二ノ宮知子のだめカンタービレ #13』、森薫『エマ(6)』、羽海野チカハチミツとクローバー8』、あずまきよひこよつばと!④』、今市子『楽園まであともうちょっと3』、そして待望の星野之宣『宗像教授異録1』に吉野朔実『period 鄱』と、どれもこれも掛け値なしに素晴らしいできで一月の間幸せな時間を過ごすことができ冥加に尽きる思い。他にも色々と出会いがあり久しぶりの当たり月。


 なかでも星野之宣『宗像教授異考録1』には、楽しみにしていた北森鴻写楽・考 蓮丈那智フィールドファイルⅢ』がいまひとつ、というかありていにいえば酷くつまらなかったので渇を癒してもらう。いや、以前から危惧していたのだけど、どうにも”蓮丈那智シリーズ”は田中芳樹の”薬師寺涼子シリーズ”のようになってきたというか、パターンに嵌りすぎているというか、舌鋒鋭い美貌の学者と気弱な助手の関係が定式化されすぎてしまって鼻につくというか、これまでに出来上がったキャラクター性だけで話が進んでしまい、このシリーズのキモであると個人的には思っている事件の解釈装置としての「民俗学」的な部分がとってつけたようで空回りしているように読めてしまい何とも悲しかった。
 それに比べ”宗像教授シリーズ”の個々の事象をつなぎ合わせ一つの結論へと飛躍するそのやり方の清清しさというか意表をつく論理の運び方というか、「民俗学」的な意匠を用いる腕前の巧みさには何度読んでも唸らされてしまう。特に今回の「百足と龍」には心底まいった。まさか百足と龍の伝承に「民俗学」的には定番ともいえるあの解釈装置を用い、変数にあの名前を代入することであんな綺麗な絵を描き出すとは。p105〜106の流れは読んでいる最中背筋が寒くなり、最後に出てきた名前には総毛立ってしまった。私ごときが言うのも口幅ったいが、これまで何度も目にしているあの名前に何であの解釈を及ぼすことが出来なかったのかと悔しさすら覚えてしまったですよ、ええ。他にも「大天竺鶏足記」は諸星大二郎孔子暗黒伝』へのオマージュのようにも読めたり、「百足と龍」「天竺のメリークリスマス」では他の星野作品とのクロスオーバーが見られたりとお腹一杯。
 

 そうそう、少しばかり面白いことがあったので書いておく。「百足と龍」「天竺のメリークリスマス」に登場する忌部*1神奈(まさかあの忌部の妹という設定だとは……)という女性。彼女が主人公の『神南火―忌部神奈・女の神話シリーズ―』という作品があるのだけど、この中に『沈黙の羊』という話がある。これは今回の「天竺のメリークリスマス」を補完する作品というか裏側的な位置づけにある作品なのだけど、どちらも上野国、今の群馬県に伝わる”羊太夫伝説”を扱った作品。
 詳しいことはこの辺り↓を参照してもらうとして、
 http://www7.wind.ne.jp/yoshii/rekisi/rekisi/chu3.htm
 

 何が面白かったかというと、実はこの作品を読む直前、私は山中笑『山中共古全集.3』を読んでいたのだけど、その中に「多胡碑給羊の文に就て」という文章があった。明治40年の『集古会誌』にのせられたこの文章、4ページ足らずの短いものだけど中々に面白いことが書いてある。

 本文は例年の初回に於て、其年の十二支に関するものを課題とせり。本年は未歳ゆへ羊に因めるものをと思ひたれけど、これと言ふものも無ければ、上野多胡の古碑搨本を出品して、此碑に関する諸説を記るすことゝせり。


山中笑『山中共古全集.3』p276

として、その年の十二支を題材に何か書こうというところから話を起こし、現在の群馬県多野郡吉井町*2にある碑について語るのだけど、それが件の”羊太夫伝説”について。読みながらぼんやりと「そういえば星野之宣も宗像教授伝奇考で十二支を扱っていたなぁ、南方熊楠の『十二支考』あたりに触発されたのかと思っていたけど、そういうわけでもないのかもしれんな」と思っていたら、そのほんの数時間後、書店にて『神南火―忌部神奈・女の神話シリーズ―』を見つけ喜び勇んで買い求め、帰りの電車の中で読んでいると、ついさっき読んでいた”羊太夫伝説”が扱われているではないですか。これは一体何のシンクロニシティかと驚嘆。あるんだな、そういう事って。


 あとはあれだ、「巫女の血脈」の中で宗像教授が、

 かつて柳田國男は日本の巫女を、神社などに仕える神子と、民間で口寄せする市子とに分類して、市子が”イタコ”になったと述べた。


星野之宣『宗像教授異考録1』p7

と講義をする場面があるのだけど、これどこかで目にした話だなと思ったら全集で読んでいた。

 春日や厳島の社頭において、白い着物に紅の袴をはき鈴を持って舞うところの干菓子のごとく美しい少女を、西洋の旅客は何度となく写真に撮って、彼等もまたこれをミコと呼んでいるようである。東京人はこのミコに対して口寄せのミコをばイチコといっている。しかるに地方によっては反対に神社に従属する巫女をイチまたはイチコという処がある。


柳田國男全集11』(「妹の力」p308)

 以前読んだ時は何とも思わなかったのだけど、今回目にして改めて全集を読んでいてふと思ったことには、この「市子」という名称。あー、もしかして今市子って、これに引っ掛けてあるのかなと。いや、始めはこの「今市子」っていう名前、「いまいちな子」、つまりある種の諧謔なのかと思っていたのだけど、もしかしたら今に生きる口寄せの巫女、つまり、他界にある物語をその身に受けて紡ぐ者、というような意味を込めて名付けたのかな、と幸せな妄想に浸ってみる。

*1:忌部といえば『古語拾遺』だけど、それより私は霜島ケイ『モンスター・プロジェクト発動中!』を思い出す。確か二冊でた時点で止まってしまったのだけどあれで完結だったのだろうか。話し的にはまだまだ続きそうな感じだったと記憶しているのだけど。作者さん現役で活躍してるし面白かったので続編希望。

*2:ちなみにというか余談だけど、この地には日本剣術のある意味では「源流」といえる念流の流れを継ぐ馬庭念流が現存する。上州の名門流派であるこの流派については坂口安吾が非常に面白い体験記を書いている。ちくまの全集の17に入っている「安吾武者修行 馬庭念流訪問記」がそれなのだけど「歴史探偵」安吾の眼が光る小品。ついでだから多胡碑についても書いて欲しかった。