「あんたこの世で一番強いのか?」「たぶん…な」


 久しぶりに飲みに飲んでふあらふあらしながら帰宅したのだが、待望の『修羅の刻』の集中連載が始まった事は欣快の至りであり、これは何か書きたくもなろうというもの。わーいわーい。
 約八百年の無敗の歴史を誇る陸奥圓明流の今回の相手は伝説の力士「雷電為右衛門」。これは『修羅の刻』の本編といえる『修羅の門』の第四部で九十九が元力士サレバ・ペニタニと闘った時に語った、雷電為右衛門と戦った先祖の話に相当するようである。


 さて、陸奥に「本物」として認められた雷電とはどんな男であったかというとこれが中々に化け物である。
 1767年(明和4)信濃国小県郡大石村(現 長野県小県郡東部町滋野大石)生まれ。6尺6寸(約197cm)、45貫(約169kg)の巨体から繰り出す怪力のため張り手・鉄砲(上突っ張り)・かんぬきの三手を禁じられたという伝説を生んだその強豪ぶりは、1811年(文化8)43歳で引退するまで21年間32場所三役を下ったことがなく、254勝10敗、勝率9割6分2厘、連続優勝7回という記録からも明らか。その伝説的な力士が何故「横綱」という力士の最高位を得られず「大関」という称号に留まったかというと、当時「横綱」とは徳川将軍の上覧相撲に際して選ばれた大関力士が土俵入りのときに儀式として腰に締めた「しめなわ」のこと(もしくは上覧試合に出る資格免許)をさしていい力士の階級でも尊称でもなく、雷電はその機会に恵まれなかっただけという理由によるらしい。 また彼は相撲だけではなくかなりの筆まめであったようで13年間の巡業日記を残したといい、これは現在も生まれ故郷である長野県小県郡東部町滋野大石の実家に現存するという。


 今回の陸奥は45歳の一見しょぼくれた親父であるが、陸奥一族の常として強い漢と闘いたいだけの「馬鹿者」である。病弱であった妻が残してくれた一粒種の「娘」とともに旅をしている。この「娘」も陸奥一族として修練を積んでいるようで雷電をして「小鬼」といわしめるくらいの力を持っている。


 今月の連載分が雷電陸奥が立ち合うかも、というところで終わっているので続きが気になる。「わしの望みをかなえる男はひょっとして……」という雷電の独白は、かつて相撲取りになるきっかけになった出来事、結果として自分が殺してしまった男の、その残された子供に対する贖罪、少年の父親が意味のない死に方をしたのではなく、その死に、この世でもっとも強い男と戦って死んだのだという意味を与えるために自分が誰よりも強くならなければいけないのだが、ようやくそれを叶えてくれる存在に出会えたという思いと、目の前の男が「人殺し」という呪われた存在である自分を罰し抱えていた罪の意識から解放してくるのではないかというどこか後ろめたさを伴った期待が感じられる。
 次号で立ち合うのかどうか今の段階ではわからないわけだが、立ち合うという方向で想像を進めると、おそらくこれまでの『修羅の刻』の流れからし雷電は負ける。しかしその闘いの中でそれまで知らなかった恐怖という感情と、「呪われた」自分の力を十全に使う事の歓喜を知り、自分の得意手である張り手を禁じていた事を(使うかもしれないが修練不足でキレがない、もしくはそう陸奥に指摘され)悔やみ、自分に納得がいく強さを手に入れた時、もう一度戦ってくれというようなことを言って、別れ、数年後再び出会うのだが陸奥はすでに死んでおり、美しく成長したその「娘」が陸奥の名を継いでいて……、という展開になるのではと妄想。女児であっても陸奥の業が継がれる事は義経篇を見てもあり得ることだし。で、最後はこの二人が結ばれて陸奥一族がまた良質の遺伝子を得る、というところで終わりそう。いや、これまでの外伝で得た血、つまり信長や義経や異人の娘や幸村の血がより「強い」人間を生み出すのに役に立ってるのかしらんけど、なんというかまるで柴錬の『忍者からす』みたいだ。
 

 そういえば川原の作品にでてくる女の子は常にツンデレだ。"修羅シリーズ"に話を限っても『修羅の門』の龍造寺舞子、フロ−レンス・ヒュ−ズ、アニ−タ、『修羅の刻』の詩織、千葉さな子、蘭、ニルチッイ、圓、静……等々、余りにも多すぎで枚挙にいとまがない、というか例外を探すのが大変なほどだが今回このツンデレ性質は陸奥の「娘」に体現されている。


 と、そんな事はさておき、実は読み終わった瞬間どうしようもなく違和感を覚えたのだが、それは作者のミスリードにまんまと乗っけられたのではないかというか、乗っかったというか何かが違うという思いというか。何が引っかかるのかと考え思い当たったのは陸奥の子供は本当に「娘」なのだろうかという疑問だったりする。 
 読んでいる最中から何かが引っかかっていたのだが「娘」である事が自明である筈の陸奥の子供が、しかし、本当に「娘」なのかという疑問を覚えたのがその原因だったようである。女児でないなら何か。答えは一つである。実は陸奥の子供は「娘」ではく「息子」なのではないだろうか。
 別に確たる根拠があるわけではないのだが、作品を読むと分かるように、実は今回の掲載分で陸奥の子供が「娘」であると言明されている場面は一つもない。私たちが陸奥の子供を「娘」」であると思うのはその容姿と「あたし」という一人称と、p55で相撲を見に来ていた聴衆が「じょうちゃん」と呼びかける場面によるのである。この三つの条件から私たちは陸奥の子供を「娘」であると決めているのであるが、陸奥親子の間でそれを認めている場面はない。それに加え聴衆が「じょうちゃん」と呼ぶ、その場面のわざとらしさというか、餌をまいた感がぷんぷんするというか、かてて加えて次のコマで陸奥の子供が台詞もなく振り返えっているのだがここの間の取り方が何かを含んでいるように思えてしょうがない。
 ひとまず陸奥の子供が「息子」であると仮定してみよう。するとすぐに一つの疑問が生まれる。何故、男児である筈の陸奥が女児のような格好をしているのかという疑問である。
 これに答えるのは容易である。かつて民間の習俗として生育の無事を祈り男児に女装をさせて育てるという風習があった(現在もある?)。有名な所では、物語ではあるが、馬琴の『南総里見八犬伝』で八犬士の一人である犬塚信乃がシノという名前で女の子として育てられているし、最近では今市子百鬼夜行抄』で主人公の律が魔に魅入られないためという理由で女装で育てられている。そう考えると陸奥が自分の子供に丈夫に育って欲しいという思いから女児として育てている可能性があると考えうる。またその傍証として病弱だった陸奥の妻の存在を挙げることができる。度々、軽口交じりに(それは軽口に紛れさせなければ言うことが出来ないという陸奥の心の傷の深さを表しているようにも読める)語られる、死んだ妻への陸奥の愛情と、体が弱かった妻が自分の命を縮めることと引き換えに生んだ息子に妻の分も丈夫に育ってもらいたいという思いがこのような形で現れたのではないかと考えられる。つまり、妻に対する愛、父親としての息子に対する愛、さらに妻を生き長らえさせることができなかったという悔恨と贖罪の思いがその根底にあり、これらの思いが陸奥をして「息子」に女装をさせている理由なのではないだろうか、と勘ぐってしまった。すると、上に書いた流れで話が進んだら、陸奥が死んだ後、陸奥の名を継ぎ美しく成長した「娘」(本当は息子)と再会し、立ち合い、先代の陸奥に使うことができなかった禁じ手を完璧な形で使いその上で負けた雷電陸奥に惚れたと思ったら「馬鹿、おれは男だ」とかいわれて終わったらそれはそれで良いのではないかと妄想。


 ところで「雷電為右衛門」であるが、ふと思いついたことがあるので忘備録がわりに書いておく。何ら根拠のない妄想であるのだが「雷電」という名は小子部の一族と関係があったりしないだろうか。そうだとすると面白いのだが。上述のとおり雷電信濃国小県郡大石村に生まれたのだがこの「小県」という文字を見た瞬間、何かが繋がったような気がしたので。
 『日本書紀』の「雄略紀」に天皇から養蚕のために蚕(こ)を集めることを命ぜられた男が、誤って嬰児(こ)を集めてしまいその養育を申し付けられて小子部連という姓を賜ったという話がある。また天皇のために三諸岳の神を捕まえにいったところ大蛇が現われ、それを捕まえ天皇に献上した。すると大蛇は雷のような音を立て目を爛爛と輝かせた。天皇は畏れおののいて目を覆って大蛇を見ようともせず宮殿の奥深く隠れてしまい小子部は大蛇を丘に放した。これにより「雷」という名前を授けられたというが、よく分からん話ではある。何故、三諸山に住む神(オオモノヌシといわれるわけだが)=大蛇を掴まえたからといって雷という名前をもらうのだろうか。いや、恐らく大蛇が雷のように光ったから、というかそもそも蛇の形状が天と地を繋ぐ雷との類比で理解されたからなのだろうが、やっぱりよく分からん話ではある。これが『日本霊異記』になると小子部栖軽という男が真っ赤な幡桙を振り乱し雷を招き捕まえたという話になっている。
 とにもかくにも、かように小子部は雷と縁が深い。で、小県と小子部に何か関係があったら面白いなと調べてみたらビンゴ。少し検索をかけてみただけでもでるわでるわ。

http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/asotimei.htm

■長野県(塩田平) 安曽(宗)郷  
  ⇒上田市古安曽

平安時代 小県(ちいさがた)郡八郷の一つで阿宗郷といい、塩田荘の前身です。(和名抄)
・かつて、小鎌倉と称された別所温泉の西方、千曲川の南に位置します。後背地には富士山や独古山があります。
小子部氏によって治められた県ということで小県となったという説があります。 (上田小県誌 黒坂周平氏
・独鈷山の峰を安曽岡山といい、その山麓を安曽岡ともいいます。
信濃国造は阿蘇氏と同族と伝えられています。古代九州の阿蘇山麓に住んでいた人達は、東方の奈良へ移動し、大和朝廷設立を支援し、多氏族を編成していたが、氏族の一部は信濃国造として信濃へ派遣され小県郡塩田地方に本拠地を定め、故郷の名をつけたといいます。
・また、多神社を建造した。古くから水田が開けた石神の安曽神社ふきんには条理遺構があります。
鎌倉時代には、塩田庄に後の島津忠久が地頭に任命されている。さらに信濃国守護には北条重時が任命され、その後、北条義政が移り住みました。塩田は信濃の政治・文化・宗教の中心として栄えたようです。
生島足島神社(いくしまたるしま)には、“生気が満ち溢れ諸事満ち足りた”国魂神が宮中同様祭られています。(続日本紀
・金刺氏(かなさし=欽明天皇時代に磯城嶋金刺宮に舎人として仕えた)や他田氏(おさだ=敏達天皇時代に譚語田宮に舎人として仕えた)は、神八井耳命の子孫で安蘇氏と同族といいます。
安楽寺

 って、色々と意外な名前がでてきてびっくり。ここにみえる阿蘇氏とはかつて宮中の葬送行事に携わりその後忽然と姿を消した遊部という一族に関係するかもという一族、っていうか、それに加えて少々怪しいけど金刺って『関八州古戦録』にいうところの上泉伊勢守秀綱の先祖筋にあたる一族ではないですかとか、神八井耳命といえば多氏で多氏といえば『古事記』だけど、明石散人の”鳥玄坊シリーズ”ではこの一族の末裔が重要な役で出てきて、その中の一人が雅楽の胡飲酒には武術としての側面があるみたいな設定で超絶的な武術家として描かれていたのを思い出すが、あれ小説としてはあまり面白くなかったけどその話には何か根拠みたいなのはあったのかな確かに多氏は平安以降、宮廷の雅楽をつかさどる楽家になったというけどそういえば小子部連も多氏の子孫かとそれは置いておいて、

http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/asotimei.htm

信濃国造に任命された阿蘇氏の一族は、この塩田平に定着したのだろうというのが、信濃古代史の研究家(とくに栗岩英治氏、一志茂樹氏など)の説で、その根拠は、塩田平に阿曽岡・阿曽岡山などのアソと称する地名が残っていること、生島足島神社という国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存すること、(国魂神は、国造の治所には祀られるのが通例であった)、一族の小子部氏の名が小県(ちいさがた)(小子部の県の意)として残っていること(これはとくに筆者が詳しく考察している)などによっている。(『上田小県誌』古代中世編)

上田市のサイトを見ても、
http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/~cityueda/ipro/03/20050221144228795.shj

大和時代には、塩田の地に朝廷の命で九州の阿蘇氏が国造(くにのみやつこ=知事)として派遣され、この地が科野国(しなののくに=信濃国の古名)の政治・文化の中心地になったと考えられます。それは、この地に数多くの安曽(アソ)と称する地名が残っていることや、一族の小子部氏の名が小県(小子部の県(=皇室の直轄領))として残っていること、また、生島足島神社(万物を生成する生島神と万物を満ち足らしめる足島神=天皇が皇居で拝礼されている23柱のうちの2柱)(=国造が宮中から奉斎したと考えられる)が現存していることなどから推定できます。

と書いてあったりして非常に興味深い。妄想爆発。うう、それにしても気持ち悪い。明日早いんだけど、酒ぬけるかな。