読書


後藤明生『吉野大夫』


 話者である「わたし」が吉野大夫という遊女の史実を探し、そしてそれが見つからないという事を書き続け一編の小説にしようとしている過程を描いた話なのだけど、気負いもなくゆるやかに「歴史小説」や「時代小説」、いわゆる稗史小説の方法をはぐらかし続けて、それが同時に稗史に対する批評にもなっているように思え中々面白く。題材としようとしているものの中にすでに過剰な物語(美貌で容姿端麗の遊女、隠れキリシタン、吉野坂の地名の由来、宿場町の遊女、吉野大夫勤皇の志士説などなど)が含まれていて、「わたし」はそれに敏感に反応して、吉野大夫の処刑の場面を想像し映画にするならばそこをラストシーンにすると考え、小説にするならばこう話を組み立ててゆくのだろうなという空想をしたり、能のような物語を妄想したりするのだけど、それらをただの思いつきとして廃して、思いついたことをただ思いついた事として何事もなかったように話を続けてゆく。
 

 この話は所々で道を外れてずれてゆくのだけど、それは断層のようなずれ方ではなくて、ふっと出てきた言葉がどんどん拡大したり引き伸ばされて気がつくとどこか遠いところに来てしまっていた、というようなずらし方なので読んでいてどこに連れてゆかれるのだろうという小さな不安が生まれ、それが読んでいる最中のふらふらした感じを生み出している。例えば冒頭で「わたし」が、自分が吉野大夫を知ったきっかけについて話し始めたかと思うと、それが何時しか自分の書いた小説の話になり、それを書くにあたり影響を受けた島崎藤村千曲川のスケッチ』の書き出し方がいかに良いのかと語りだし、そうかと思うと小諸の思い出話になりというように吉野大夫の話からどんどん脱線してゆく。読んでいて、これはどこまでずれてゆくのだろうかと、いやそもそもこれ戻るのかと多少不安になる。


 会話のズレ。かみ合わずゆるゆると拡散していったかと思うといつのまにか本題に戻っている会話に読んでいて噴き出してしまった。『首塚の上のアドバルーン』の時も思ったような気がするのだけど、この人、会話とてもうまいなあ。後藤明生の書いた戯曲とか読んでみたかったな。平田オリザとか芝居化してくれたら面白かったかも。


 題名に「吉野」とあるからという理由が無いとはいえないけど、読み進めてゆくうちに「これは谷崎の『吉野葛』に対する批評かしらん」と思っていたら、案の定、作中で『吉野葛』に触れるくだりがあったので笑った。で、思うに『吉野葛』が「母-子」という物語を外枠に使う事で小説としての硬さみたいなものが保証されているのに比べて『吉野大夫』は緩い感じがするのだけど、そのかわりに妙なしなやかさがあるなと。一つ間違えるとぐずぐずに弛緩してしまいそうなのに、この作品は物語ることに対する禁欲性というか書くことに対する方向感覚の良さみたいなものが強靭なしなやかさを生み出しているように思われて、それは薄い暗がりの中にすれ違ったもんぺをはいた女の幻想性に引きずられそうになる素振りを見せながらあくまでゆるゆると話を続けるところや、骨董屋との遭遇のあとの空想を楽しみながら結局骨董屋には出向かないというところに表れているようで、そのしなやかさが心地良く、色々な物語が内包されている場所をそぞろ歩きふらふらと横道にそれてゆき、ときに立ち止まりときに袋小路に迷い込みながら行きつ戻りつ歩き続け、気が付くと元の場所に戻っているのだけどその歩行ペースの緩急がそのまま小説のテンポになっている感じ。


 調べる、という行為が新しい謎を生み出してゆく過程での眩暈がするような感覚とか、目に止まった一つの単語から調べている事とは関係のない景色が見え出す楽しさや、その単語に導かれて思いがけない場所へ連れ出されたり連れまわされる心地良さというのはあり、それと同時に、何かを調べる楽しさの、その何割かは、ふらふらと歩いていてわき道にそれてゆき気が付くと道に迷っていた時に感じる心細さのようなものの中にあるのではないかと思っている私としては、この作品はとても面白かった。こういうのって何ていうのだろう。滑稽で面白みがあってそれでいて空漠としていて。日本語だとうまいいいかたが思いつかない。funnyとか? それにしても一番凄いのは、そう思わせる、つまり、ゆるゆると錯綜していて何ら構成していないように感じさせる緻密な構成の妙なのだろうな。