読書


 過日古本屋で薄田泣菫『茶話』を見つけたので買って読んでみる。今日のいわゆるコラムの嚆矢らしいのだけど「お茶を飲みながら世間話をするような気持ちで」有名人の逸話逸聞、政治や社会風俗などのこぼれ話を新聞連載したもので、本書はそれを一冊にまとめたもの。


 ただし今回見つけたものは、残念ながら、というか別に残念ではないのだけれど岩波文庫版。この版だと全800篇中154篇しか収録されていない。冨山房百科文庫から『完本 茶話』がでていて、これだと全て読めるようなのだけど、如何せん一冊1300円の上中下の三巻本なので何とはなしに手をだせぬままでいる。


 薄田泣菫はいくつかの紀行文を読んだことがあるだけなのだけど、何れも短いその文章の中で比喩や情景の描写が妙に印象に残った。別に奇妙な比喩や捻った描写をしていたわけではないと思うのだけど、変な文章だなという感触が残っているからにはそれなりに変な文書だったのだったのだろうと思っていたら、巻末の解説で坪内祐三丸谷才一の文章を引きながら薄田泣菫の文章の特徴を「『茶話』を一読した読者は、泣菫が人間を動物にたとえる比喩表現に巧みなことに気づくだろう。そしてその比喩が独特のユーモアをかもし出していることも」と語り、ははあなるほどと思ったのだけど、それに付け加えて思うに、文章の跳ね方、というかエピソードの重ね方がこの味わいの一因かとも。例えば「食事の流儀」という話がある。これは私の文章の拙さ故なのだけど、要約するとどうにも面白さが再現できないような気がするので、全文のせる。

 藤田東湖が刺身を食べるのに、いつも掌に載せてぺろりと嘗めていたという事は、いつぞやの茶話に書いたように覚えている。仏蘭西の諺に、
「蚤を殺すには、それぞれ流儀があるものだ。」
という言葉があるが、蚤を殺すのに流儀があるくらいだったら、食事をするのにもそれぞれ儀式をもっていたって少しも差支えがない。
 西洋料理を食べるに肉叉を使わないで、何もかも肉刀で片付けてしまう人がよくある。
「まあ、なんて無作法な人だろう。お行儀な西洋人に見せたらきっと笑われてよ。」
 宗教学校出の婦人だったら、そんなのを見て酸漿のように顔を赤くするかもしれないが、しかし、それは、物を知らないからで、お行儀な西洋人にも、肉刀で物を食べるのが少なくない。阿父の大事な桜の木を伐って、嘘一つ吐き得なかったジョオジ・ワシントンがまずそれで、食事をするにはいつも肉刀で済ましていた。アメリカの六代目大統領ジョン・クインシ・アダムスは、国祖のそれとは違って肉叉で食事をしたので、夫人はそれが気がかりでならなかったものか、お客があると定ったように、
「御免遊ばせよ。宿はながらく巴里に居ましたので、つい彼地の癖がつきましてね。」
と、言訳がましい事を言ったものだ。それが代変りになって、七代目アンドリュウ・ジャクソンになると、またワシントンなみに肉刀で皿を啄つき出した。
 越後の良寛上人が、ある時濃茶の席へ招かれて往った事があった。どんな場合にも無頓着だった上人は、上客から茶碗を受取ると、一息になかの濃茶を口に含んでしまった。だが、その一刹那、自分の次にもまだ一人客のいる事に気がついて、今飲んだばかりの茶を、また茶碗のなかに吐き出して次へ廻して来た。
 客は茶碗を受取った。そして低声で、
南無阿弥陀仏……」
と念仏を唱えながら、眼をつむってぐっと一息に嚥み下した。客が何のために念仏を唱えたかは私の知ったことではない。


薄田泣菫『茶話』p120〜122


 「知ったことではない」といわれても困るのだけどそれはさておき、この文章、題名が「食事の流儀」とあるので藤田東湖がでた時点で、こちらは「ははあ、藤田東湖の奇妙な食事作法について語るのか」と待っていると一行で終わり肩透かしを喰らう。ついで仏蘭西の諺が紹介されたかと思うと、それをマクラにしてアメリカの大統領の話になり、これはどこで落とすのかと読み進めるといきなり良寛の話に飛び最後は作法というか何というか。
 藤田東湖を最初に載せる必然性がどこにもないのではないかと訝しみたくもなるけれど、ひょろひょろと話が進んでいくのが何とも味わいがある。一応題名どおり奇妙な食事作法を紹介してはいるけれど、それぞれのエピソードを単発でぽんぽんと投げ込んでいるような感じが、どうにも座りが悪いように思うのだけど、何でか面白い。何だか騙されているようで悔しいのだけど、一読、転瞬ぽかんとした後「ぷふ」と口元から空気が漏れでたような音がして、そこで始めて自分が笑った事に気づくようなところが良いのかなと思った。普段真面目で無口な人が何かの拍子にぽつりと変な事をいった時の面白さに通ずるような可笑しさがあるというか。


 こういう何の役にもたたないただ可笑しいだけの文章を書けるのは凄いと思った。方向性や内容は全然違うのだけど、読後の印象は内田百輭土屋賢二町田康とか山本夏彦とか寺田寅彦とか山田風太郎の書くエッセイと似ているような気がした、とか書くと、ここに挙げた人達の文章の方向性は私が好きだという以外、全くバラバラ何の共通点もないような気がするので私は本当にちゃんと本を読めているのか不安になってきた。でもやっぱり似ているような気がする。


 外が白んできた。今日も良い天気になりそうだ。