読書


 山田風太郎『魔軍の通過』を読み終わる。


 山風ショック。
 読書中つねに頭の中心が熱を持ったようになり、読了後、虚脱と陶然がないまぜになったような精神状態に陥る。この読後感は一体何なのだろうかとしばし考え込む。いや「考え込む」というと、まるで自分の中に生じた感覚を理性的に分析しているみたいだけど、そうではない。正確にいうと、いや、正確にいう事が出来ないから困っているのだけど、とりあえず自分の感覚に焦点を合わせぼんやりと観察してみた。


 よく分からないなりに感想。


 元治元年(1864)春、藤田東湖の遺児藤田小四郎が筑波山に志士を集め、幕府に攘夷の実行を迫るため示威運動を起こした。その結果、藩内で攘夷派と佐幕派の内紛が起こり、天狗党と呼ばれた攘夷派は次第に追いつめられ、10月末、水戸藩領北部の大子に逃れる。賊軍の汚名をきせられた天狗党はその汚名をはらすため、当時京都にいた一橋慶喜の力を借り天子に義を訴えようと上洛を決意し、武田耕雲斎を総大将として残兵を集め西をめざして出発する。行く手に待ち受ける諸藩・幕府軍との息詰まる死闘、酷寒の山々に振る雪、飢え、脱落する兵士、崩壊していく党の姿を普通に描いていけば悲劇小説にでもなるのだろうが、中々に一筋縄ではいかないのは何時もの山風の事。
 人間という存在への透徹した視線、下半身と上半身の乖離という話を含みながら、これもやはり山風の作品の多くに見られる「純粋」な人物が「汚濁」に塗れ、逆に「汚濁」に塗れた人物が「純粋」な存在に反転していくという露骨なまでに形式化された趣向が今回も反復され、それが最後の一文に向けて収束していく。


 天狗党の乱がもたらしたものは何だったのか。ある者はそれを幕府倒壊を告げる一大宣伝隊であったといい、ある者はそれをただ攘夷という観念に取り付かれた暴発であったというが、この物語はそれに答えを出すものではない。ただ、「英雄的で、無残で、愚かしくて、そして要するにつじつまの合わないドラマの」最後に残ったものを浮き彫りにするのだ、と云う当たり前な事は一先ず置くにして、この物語は、天狗党の首魁の一人である武田耕雲斎の四男として生まれ十五歳という若さで天狗党の乱に参加した武田猛(源五郎)が、乱の終焉からおよそ三十年後、天狗党が悲劇的な最期を遂げた地・敦賀の史談会に招かれ過去の思い出を語る、という形式で進んでいく。終始、話者である「私」は聴衆*1に向けて「ですます」調で語りかける。ただ、その中で作者が何度か顔を出し短いコメントを差し挟み消えてゆくのは、語りの場を壊しかねない気もするのだけどまあご愛嬌といったところか。


 話者が語る場と、語られる事件の場が緩やかに混合し時間の軸が捻じ曲がるような不思議な感覚。語り手である「私」が語る言葉は、語りかけられる聴衆の姿を不可避に浮かび上がらせ、それは同時にこの作品を読んでいる読者である「私」に働きかけるのだけど、<いま><ここ>で語られている、話者の経験した過去の出来事が、気づくとまるで<いま><ここ>で起きているような錯覚を覚える。それというのは恐らく「」が保障する台詞の現前性に負うところが大きいのだろうと思いながら、他にその要因を考えてみるに例えば過去の武田猛(源五郎)がある村にたどり着いた時の事を現在の武田猛が語るとき、「ここの村は」という言い方をしているのだけど、<いま>から過去を振り返って語っているのだからここでは「そこの村」というように対象化されて語られるはずなのに、それを「ここの村」と示す事で<いま><ここ>でその村が現れているという感じになるからかと思ったり。


 山風の明治モノに顕著な楽しみどころの一つである、思いがけないところで実在の人物の名前を登場させさり気なく作品に絡めていくという手法はこの作品でも見ることができ、何度かニヤリとさせられる。題材が天狗党という事で、ある作家の名前が出てくるかもとは思っていたけど、まさかあの作家まで出るとは予想できなかった。なるほどそんな関係があったとは。これ見よがしではなく物語の中でさらりと出すところが品良い。


 それにしても、この語り口の妙、語られる言葉の滑らかさは何なのだろう。眼で聞き、耳で読む。一文を口に乗せてみるだけでたちまち羽化登仙。私はこの作品を読んでいる最中、ややもすると、誰がこの物語を語っているのか、という事に対する意識が消えるのを覚えた。これほどあからさまに話者がいるのにも関わらずだ。まるで書かれた文字が透明になり、それが「声」として直接私に届き、語られている物語があたかもそれ自身として<いま><ここ>で私の前に立ち表れてくるような感覚が生じた。勿論それは錯覚だ。それが書かれたものである以上、そこにあるのは語りに見えるように書かれた文章だけなのだ、という当たり前にすぎる認識はさておくとして、そうであるにも関わらず、作中の文章を(黙読にせよ音読にせよ)読んでみると、一繋がりの極めて「自然」な「声」が「私」の中に入り込んでくるような、その感覚というのは中々に面白いものだった。

*1:それが果たして史談会の人々なのか、それとも講演のようなものが開かれそこに集まった人々に向けてなのかは作中では明示されていない、と思う。私に読み落としがある可能性は十分に考えられるが。誰がこの物語の受け手なのか、という問題はもしかしたら重要な問題なのかもしれないけど、如何せん私には良く分からない