継続する読書


 『意識とはなにか−〈私〉を生成する脳』『脳の中の小さな神々』『脳内現象』『脳とクオリア』に続いて、ついさっき『脳と仮想』を読み始める。まだ20数ページ。そう、この作者、小林秀雄凄い好きなのね。森博嗣と対談して欲しいとか、内容からみたらそれこそ『鉄鼠の檻』経由で直球に通じる京極夏彦とも、というかいっそ鼎談でもとか思っていたのだけど、前田英樹と対談してくれないかな。
 前田英樹小林秀雄好き、っていうかそのタイトルも『小林秀雄』という評論まで出すくらいに読みこなしているわけで、話が噛み合ったら無茶苦茶おもろいと思うのだけどな。
 『剣の思想』みたいな感じで往復書簡でも面白そう。茂木健一郎が新陰流をどう読むかを見たい。新陰流の「太刀(かた)」という制度を脳科学からどう読み解くのか。「神経武術学」。はははは。
 新陰流という体系に対してされた科学(面倒くさいから「」は付けない)の側からのアプローチといえば、清水博『生命知としての場の論理』があるけど、その中でこの作者は真剣勝負の場を「敵対する両者を包含する複雑な場所(予測不可能なことがおきる場所)の中で二人が真剣を持って演じる「即興劇」であると見なすことができる」と書き、さらにこの即興劇の中で生まれた(上泉伊勢守秀綱によって生み出された)普遍的な法則性によって考え出されたのが、新陰流にいう「活人剣」だとしているんだな。この人の言葉通りに書けば「敵に動きを出させてその動きにしたがって勝つ」技術。要するに「転」か。んで、この「普遍の理」が何で注目に値するかといえば、次のような理由らしい。

 まず、少なくとも哺乳類は複雑な環境の中で生きていくために、未知の新しい出来事に遭遇しても、その場その場でリアルタイムに適切な判断をし、決断しなければならない。このリアルタイムの判断を行う知、すなわち「リアルタイムの創出知」なくして無限定な環境状態の中で生命を維持していくことは困難である。この「リアルタイムの創出知」とは、結局、判断の基礎となる「常識」に相当するものである。常識の本質は「普遍の知」であり、多数の「個別の知」の集合では絶対に表現できないものである。この普遍の知(リアルタイムの創出知)の本質とは何かを科学的に理解することが、生命の科学の重要な問題であり、また「生命を捉えなおす」ためにも、この問題を解明しなければならない。しかし、この普遍の知は、これまでの科学の論理だけでは理解することができない。それは、科学の論理は本質的に個別の知に立った論理であるからだ。


清水博『生命知としての場の論理』p7〜8

 「個別の知に立った論理」の意味が私にはどうも捉え辛いのだけど、固定的な情報というか、Aに対する時はBせよみたいな、一対一型の知識のことなのかしらん。で、そういうのを集めて帰納しても「普遍の知」(=無限定で予測できない状況の中での行動処理の方法?)には至れないよといってるのかしらん。
 この話を茂木健一郎と繋げようとすると、「人間の脳は不確定性に対応するためにできた」という話にリンクする気がするわけで。さらにこれが、前田英樹の言うところの、上泉伊勢守秀綱が、斬り合いという一回性の出来事の中から、普遍的な運動性としての「太刀(かた)」を創造したという話が、人間の体験するユニークな一回限りの経験としての質感、つまりクオリアから、人間の主観性の普遍的な記述方法を探そうとしている茂木健一郎に重って見えてくるわけで。面白くないかなぁ。この二人の対談。面白いと思うんだけどなぁ。それに前田英樹ソシュールの専門家なんだけど、ソシュール言語学における言語の差異の話と脳の認識方法としての差異の話って何か繋がりそうな気がするんだよなぁ。違うかな。読みたいなぁ。
 脳の制度と「太刀(かた)」の制度性。「太刀(かた)」の束縛性とそこから生み出される動きと、科学的に記述される脳の機能(物質としての脳)から生み出される意識の話って、何だか通じるような気もしつつ。あああ読みたい。コミュニケーション能力の話としても面白いと思うんだけどなぁ。まあ、一方は無限定な状況でいかに相手を斬るか、一方は無限定な状況でいかに関係を作るのかという話だけど。ま、でも、あんま変わらないか。
 あと、脳の抑制を外す話とか。私的にはスキーをやったり登山をしている時に感じる、視界がすっと窄まる感覚。無意識の内に何かを淀みなく行う感覚。ジャズ何てろくに聞きもしないのに聞きかじって格好良さげな単語を使うところのインプロビゼーション。いわゆる即興。それまでの訓練が問題になるのだろうけどそこら辺を剣術の体系性の問題と絡めて聞いてみたいと妄想云爾。


 と、ここまで書いたところでクオリア日記を見たら、1月31日のところで、講談社メフィスト賞作家に言及した文があり、「森博嗣さんの「すべてがFになる」は、沖縄のビーチで下半身海に浸かりながら読み、あったま来てゴミ箱に捨てた」と書いてあった。あちゃあ。ははは。「すべてがFになる」受け付けない人だったかぁ。なしてやろ?理由読んでみたいな。
 登場人物(取り分け、犀川、西之園、真賀田)の世界との距離感の書かれ方が合わなかったのかな。古典的な意味での「人間」(エクスキューズ「」失礼)ではないからなぁ。そうかそういう意味では「セカイ系」(以下、同上)とかいうやつの先鞭をつけた作品だといえてしまうのかも。まあこの作品は過剰な自意識というよりもその反動としての過剰な虚無性がきもな気もしつつ。自意識を生み出す何かが機能しなくなった後の、価値混乱を回収するものとして、過剰な空虚性が抑圧的に働いている世界というか。逆かもしれないけど。まあ、そうするといわゆる「セカイ系」とかいうやつは反動の反動か*1
 それとも、科学者の書かれ方が類型にすぎるというか、あまりにも矮小化されステレオタイプにすぎるとでも感じたのかしらん。面白いなぁ。

*1:どうでもよいけど、「セカイ系」とかって、苦悩とか葛藤とか成長とかそういう古典的な「人間」像が「壊れて」いるわけだけど、その壊れ方がいわゆる「内向の世代」とどう違うのかしらん。壊しているのではなく壊れている? 何れにせよただの退行にしかみえん。