早いものでそろそろ師走もカウントダウン。


 茂木健一郎を何冊か読む。無茶苦茶面白い。二冊目の途中で鼻血を吹き出すほどに興奮する。ただ、これ、科学なり物理なり、要するに近代の合理主義的な考え方というかニュートン以来の物理学的な考え方というか、とにかく、そういう西洋に端を発する世界記述のスタイルを徹底的に学んだりしたそのうえで、ヨーロッパ諸学の危機を本気で憂えたりしている人じゃなきゃ書けない本だよなぁとの感想を持つ。そういう方法論というか世界観というかが根底にないとただの世迷い言に聞こえかねん。問題意識の所在なんだろうけど。そういう意味でこの作者は凄い。素養は抜群だし、問題意識がはっきりしている。


 それにしても、私はこういう方法で世界を記述するスタイルの素養がないので、だからこそ無責任に、それこそ良質のSFを読むような感じで楽しんで読んでいられるのだろうけど、本職の脳科学の人達(機械論的な脳研究というか刺激→反射の対応みたいな研究をしている人達)はどんな感想を持っているのかしらん。この作者なり本なりに。そっちの分野、全然知らないので、この作者なりこの研究が斯界でどう認識されているのかちと気になる。どうでも良いが茂木健一郎森博嗣と対談して欲しいな。メフィストとかで企画してくれないかな。くれないだろうなぁ。ぴったりだと思うんだけどな。


 あー、それにしても『脳の中の小さな神々』で紹介してある、フランク・ジャクソンとかいう人の論文(『メアリーが知らなかったこと』)読んでみたいな。白と黒しかない部屋で生まれ育ったメアリーという天才学者が、外から得た情報で、脳が色を認識するシステムを完璧に理解したという設定で始まる思考実験を論文化したものらしいのだけど、ある日、その部屋が壊れ、メアリーは色とりどりの世界へ投げ出される。そこでメアリーは生まれて初めて「赤い花」を見る。そのときメアリーは「赤い花」のクオリア*1を経験し、その時始めて「赤い色」を見るとはどういうことなのかを知るだろうという話らしい。これ、クオリアという言葉が脳科学の論文に出た最初らしいのだけど、物理的な存在である脳の機能の結果として考えられる「赤い色」の認識と、個々人の体験する一回性の感覚としての「赤い色」は違うものだろうと言ったものらしい。どうでもよいけどこの設定ラルクの『Vivid Colors』とか『風にきえないで』、あまつさえ真賀田四季を連想してしまいにやけてしまった。


 他にも色々興奮すべき話はあれども(人間はゾンビでもおかしくないのに何で「意識」なんてものがあるのかとか。これ面白いよなぁ。物理的な法則で記述できるだけならば−というか多分出来るのだけど−それなら脳は刺激→反応の回路の塊なわけで、別に主観的体験なんてなくとも不思議じゃないしなぁ)、中でもミラーニューロンの話は鼻血ものだった。

 文系的な理解、というか感覚的にしか理解できていないのだけど、このニューロンは元々サルを使った実験で発見されたらしい。サルの前で研究者がアイスクリームを食べた時、サル自身は何も食べていないのにもかかわらず、自分がものを食べるときに活性化するのと同じ脳の領域が活性化したらしく、それがまるでサルが脳のなかに鏡を持っていて、他人の動作をそのまま取り込み、自分の中でその動作を反復しているようにみえるところから、その活性化した神経細胞群をミラーニューロンと名付けたらしい。
 何だろう、多分、サルが何かを取ろうとする時に活性化する部分と、他のサルなり人間なりが何かを取ろうとする動作を見た時、それを見たサルの脳で活性化する部分が同じだということかな。FFシリーズの物まね師必須能力みたいなものかしらん。


 何でも人間の場合はブローカ野で発見されたらしく、自分がある行為をする時に反応する神経細胞群が、自分は実際に行為に及んでいないのに、他者のする行為を見ただけで、同じ動作をしているかのように反応するという。自分で何かをするのは運動情報で、他人がしている行為を見るのは感覚情報らしいのだけど、ミラーニューロンはそれを結びつけてしまうという。
 本の中ではこれを「自分と他人に関する情報が、共通のフォーマットで表現されているということ」といっているが、適応範囲が広すぎるぶん、慎重な理解というか研究が望まれるわけだけど、それを踏まえた上でわくわくする話だなと思いながらも、運動領域の話は置くとして、自他を分ける境界線というか、他人の表情や行為を見たとき湧き上がる「いま、相手はこう考えている(思っている)に違いない」という強いリアリティを伴う感情を生み出す原因の少なくとも確実に一因であると考えられるだけに、安易にその部分だけが取り沙汰されるのではとも思い、なかなか怖い話だ。
 人の気持ちが分からないような振る舞い、言動=ミラーニューロン機能不全みたいな。逆は真ならず。あな恐ろしや。

 話としては鼻血が出るほど興奮するものなんだけどなぁ。
 

 興奮といえば、最近読んだ、中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』に不覚にも感動してしまい、そのまま網野善彦を読み直すことに。第二次プチ網野ブーム到来。ざっと読み直した結果以前よりも楽しく読めたのは置くとして、しみじみと思ったことには、資料に基づいた実証的な研究を積み重ねて、それまでの常識的な歴史観を覆すというか異議申し立てをした(し続けた)その力量に脱帽の一言。あと、今回始めて読んだ『偽文書学入門』が意想外に面白く充実した読書生活。そうか以外と偽文書研究って歴史浅いのね。そりゃそうか。そう考えるとやはり柳田國男には先見性があったといえるのかしらん。『松王健児の物語』とか。
 ただ網野善彦を読んでいると、非農業民、わけてもその異形性への関心の示し方に戦略的なものなのかもしれないけど、「あんたは不良に憧れる優等生か!」とか「不良に何か劣等感持っとるんか!」と思ったり思わなかったりするところがたまにあったりして。


 読書生活といえば、今更ながらジョン・ダニング『死の蔵書』を読み、「あー、最近面白い小説読んでないなぁ。何かおもろいのないかなぁ」とか呟いていた一週間前の自分の後頭部に思い切り蹴りを入れたくなる程の衝撃をうける。パーフェクト。素晴らしい。まさかこれ程とは。その前に読んだギャビン・ライアル『拳銃を持つヴィーナス』が肌に合わなかったので一層面白く読めた。やはり前菜は大事だ。

*1:ラテン語「qualia」。私達が何かを感じた時、その瞬間の感覚に伴う独特な質感を表す概念を意味する言葉らしい