明日は雪が降るだろうか。


 久しぶりに吉野朔実の『瞳子』を読み返してみた。


 本を開いた瞬間からテンションが高くなり頭の芯が熱くなってくる。毎回そうだから何度読んでも内容が頭に残らない。読んでいる間中、静かな興奮状態にあって、数頁めくるごとに本を置き、「あー」とか「むー」とか叫びながら部屋をぐるぐると回る。隣人に聞かれていたらどうしよう。聞かれるだけなら良いのだけど、割と度々なので通報されでもしたら……嫌だなぁ。


 読んでいる本の世界と、それとは関係を持たない映像(情報?)が頭の中で二重写しになり次第にその映像の中に入って行くのがとても心地よい。この状態に私をしてくれるのが、多分、私が「この本面白い」という時の十分条件。だから面白と感じた本を読んだ後、どこが、なにが面白かったのかを考えても分からない事が多い。ただ、面白かったという感触が残っているだけ。
 本を読んでいるという意識を保ち、その内容を受けながら、同時にまったく違う事が頭の中でぐるぐると回り始める時の感覚といったら、これ以上気持ち良い事があるのだろうかと思うほど気持ち良いのだが、あまり長くその状態でいると疲れてしまうので、適度に気を紛らわせながら読む必要があり、それが少し面倒臭い。何だか最近その周期が短くなり、すぐに疲れてしまうようになった気がするのだが、これは機能低下なのだろうか。それともただの体力低下なのかしらん。


 それにしても瞳子と森澤と天王台のような距離感は良いなぁ。



 ニュースを見ていて、昨日『京都・観光文化検定試験(通称・京都検定)』というものがあった事を知る。
http://www.kyo.or.jp/kyoto/kentei/kyotokentei/
 昨日、丁度『京の路地裏』(吉村公三郎)を読んでいたので、これも何かのシンクロニシティと思うが、むしろ電車の中で斜め向かいに座った男性が、『京の路地裏』を読む前に私が読んでいた『語り手の事情』(酒見賢一)を読んでいた事のほうがよりシンクロニシティな気がする。どうでも良いが、公衆の面前で読める本だろうか。私は無理だ。声を上げて笑っているところを人に見られたくない。


 『京の路地裏』は京都で育った作者(映画監督らしいが私は知らない)が、過去を振り返りながら京都の風土を語るものだが、『祇園祭』の話が印象に残った。6歳の頃の思い出話だが、作者自身が「語ればなあに、大したことではない」と書いているとおり、大した話ではない。祇園祭の最中、迷子になった作者が京都で一番といわれた茶屋『一力』の芸妓さんに家まで送って行って貰うという話だ。何が印象に残ったかといえば、次のようなところ。

 幅の広い人力車に乗り、芸妓が腰かけ右手で私を抱きかかえるようにする。私は足台にたったまま、姐さんの腰につかまる。仲居さんに見送られて、四条通りへ出る。
「××さん、派手な相乗りやな……」
知り合いらしい人が声をかける。ガラガラ四条通りを西の方へ。
私のつかまっている顔のすぐそばに、固い姐さんの帯があって、人力車がゆれるごとにゴツンゴツンとオデコがぶつかる。
「もうちょっとの辛抱え」
と姐さんがいってくれる。姐さんはとてもいい匂いがする。母が外出のときその着物が匂ったが、それとはまた違った香りである。
(『京の路地裏』p60〜61)

 非常に、何というか、セクシャルな香りがしていて良い。ヰタ・セクスアリス


 そういえば『一力亭』といえば谷崎潤一郎が贔屓にしていた店らしい。渡辺たをりの『花は桜、魚は鯛』にも出ていた。「この子は味がわかるんだよ」「たをりは食べる名人だね」で有名なあれだ。けっ。


 いや、それよりも『一力亭』といえばあれだ。『仮名手本忠臣蔵』だ。『京の路地裏』にも出てきたが、『仮名手本忠臣蔵』の「祇園一力茶屋の場」で、大星由良之助(大石内蔵助)が遊び続けた場所として日本中に名を知られたところだ。それに感謝してか今でも3月20日には「大石忌」という法要を営んでいるらしい。参加するには『一力亭』の招待状が必要らしいけど。


 おお、見出しに繋がった。