電車の中で
電車に乗っている時、隣に本を読んでいる人がいたりすると何を読んでいるのか気になるのは私だけではないと思うのだがどうなのだろうか。
私は隣に本を読んでいる人がいると、さり気なく横目で本文を盗み読みしながら本の版形や紙質をチェックして出版社とレーベルを推測するのが殆ど習慣となっている。
一番良いのは題名と作者がすっと出てくる事。これは気持ち良い。次はタイトルだけが出てくる事。これもまあ、良い。以下、作者だけ、出版社だけ、レーベルだけと色々続くのだが、たまにまったく分からない物があって、それはそれで中々楽しかったりする。
その人が読んでいる姿勢によって、どうしても本文を見る事ができない時がある。そんな時は伸びをする振りをして背筋を伸ばし、さりげなく横斜め下視線で覗き込んだり、首の凝りをほぐす様な仕草で首を左右に動かし、素早く覗き込んだりしている。
傍目から見たらかなり、いや、相当に不審だと思う。
一度、読んだ事がある筈なのにどうしても題名が思い出せず、表紙を確認したくなった事がある。
ただ、その人はかなり背を丸め読んでいたため、表紙が下を向いていて見ることができない。思い余った私は自分の靴を直す振りをして屈み込み、下から覗き込むように素早く表紙に目を走らせたのだが、その途端当の本人と目が合い露骨に不審そうな顔をされた。それ以来、極力この方法は取らないようにしている。ちなみに相手は妙齢の女性だった。これでは変態と変わらないのではと思うが、やっている事はあまり変わらない気もするのでしょうがないかと思う。
その女性が読んでいたのは五味康祐『柳生武芸帳』だった。栞紐と本の紙質で新潮社と分かっていたのだから、本文中に柳生但馬守と山田浮月斎が出てきた時点で気づくべきところだった。こういう時は結構悔しい。
今日電車に乗っていたら、今時の格好をした若い女性が隣に座り、おもむろに文庫本を取り出したので、何時ものようにちらちらと覗き見たのだが、何を読んでいるのか皆目見当がつかない。カバーを付けているので表紙も見えない。ただ、小説だという事は間違いない。しかもおそらく海外SF。
ちゃんと調べたわけではないので確かな事はいえないが、大概の文庫本の場合、上段の隅に頁数と章題のようなものが付いている(創元とかは下段かな)のだが、彼女が読んでいた本には頁数だけで章題がなかった。
確かハヤカワ辺りがそうだったと思うのだが、それくらいしか手がかりはない。いや、そもそも読んだ事のない本を当てるというのも無理な話だと思うのだが、文章の癖みたいなものから、脳内で自分が読んだことのある本と比べてみたりしていた。それで暫く横目で本文を見たり、ぼんやりと考えているうちに何とはなく「これはヴォネガットではないか」と思い始めた。
『タイタンの妖女』『猫のゆりかご』『スローターハウス5』位しか読んだ事がなかったので、何故そう思ったのか不思議だが、本文の頁数と文章を記憶しておいて家に戻り本棚にあるヴォネガットを調べてみた。ビンゴだった。
ボブ・フェンダー博士の小説の中の判事は、瞑想センターの哲学者のうちで、だれがいちばん賢明かつ満ちたりているかを、推測しようと試みる。そして、二回の監房のベッドに腰かけた小柄な老人がそれだ、と判断する。この小柄な老人は、自分の考えがよほど気に入っているらしく、ときどき手を三回たたくのである。
(『ジェイルバード』p113)
こういう時は中々楽しい。
それにしても人は見かけによらないというか、何というか。服装で趣味嗜好を判断するのも何だが、本に興味なんかありません然とした人がヴォネガットとは。中々妙味があって面白い。