さいきんよんだほんから

 四方田犬彦によれば、「あらゆる女の子を『かわいく』変身させてしまう、魔術的な装置」であるプリクラに「大人」としていち早く着目したのは種村季弘だったという。無時間性のうちに切り取られた空間。外部と遮断され、完全な平穏につつまれた密室で理想の美少女と永遠の時をまどろむことの愉楽を、種村は晩年の著書で綴ったという。そして、「生涯を贋者と自動人形を愛することで過ごしたこの稀代の文学者」が、プリクラという装置を「チープ・イミテーションに他ならないことを見抜」き、それだからこそ「いっそうプリクラを支持したの」ではないかと四方田は推測し、この論を敷衍してゆくと、乱歩が『押絵と旅する男』の中で描いた夢想―つまり、閉じた世界で美女と永遠にまどろむこと―がここにおいて実現したのではないかという。そして思うに、箱の中にみっしりと詰まった美少女が溜息をもらすように「ほう」と囁くのも中々よいが、と、ここまではまくらで、引用したいのはその次のページ。

 プリクラは2000年あたりでパリやロンドンにも上陸し、それ以来、当地の少女たちに人気を呼んでいると聞いた。もっともそれがもっとも多様な発展を見せたのは韓国においてであっただろう。この整形手術大国では、それは修正写真の技術と合致して繁華街の写真館の目玉商品と化した。本書裏表紙に用いたわたしのポルトレがそれである。よく眺めていただきたい。背景にも眼のなかにも、星が描きこまれているのがわかるだろう。


四方田犬彦『「かわいい」論』ちくま新書(2006)p107

 いや、「よく眺めていただきたい」じゃないだろう。電車で読んでいてこの箇所に差し掛かった瞬間、「ぶほっ」というはしたない音とともに吹きだしてしまった。確かに、読む前に著者近影を見て「なんだこのアイドルみたいな写真は」と思っていたのだけど、まさかプリクラだったとは。


 いったい涼しいというのは、すっきりと線が立っている趣をいい、すっきりとは或る鋭さを含んでいるとおもう。涼しげというのはそういう強さがある。自体には暑いことを承知していて、その暑さをどこかでちゃんと遮断して見せているのが、涼しげである。げというのは力量である。力量で涼しく見せている人もあるが、もともと暑くなくて涼しい人もいる。骨格がいいのか血が涼しいのか、皮膚が別製なのかしらないが、ひとがふうふう言っているときに、実になんともない人がいる。羨ましい人だとおもうけれど、いささか蛙のしゃっ面に水かけた式の、通じなさも感じる。こういうもともと暑がらない人の涼しさは、いわば天然の涼しさだから、暑いのをぐっとおさえて見せる涼しげの、線のたった強さなどではない。いかにもぼんやりとした涼しさだ。が、いつかこちらへも涼しさがしみてくる。山にあるあじさいは、天然に涼しい人のようなもので、すっきりとはしていないが、暑いということをしらない風情がある。


幸田文あじさい」(『回転どあ・東京と大阪と』所収)講談社文芸文庫(2001)p48〜49

 幼い頃、何かの本で、夏場に和装するとき、顔に汗をかくとみっともないので、そういうときは胸をさらしのようなものでぎゅつときつく締め付ければ汗をかかない、というような話を読んだことがあり、何故にそうなるのかその理屈は忘れたけど、物凄いことをするものだと思った記憶がある。しかしながら、何故に顔に汗をかくとみっともないのかわからなかった。私も夏場に顔に汗をかくのは嫌だけどそれは肌が痒くなるという生理的なものなので、それ以外の理由で汗をかくことに抵抗を覚えるという感覚がわからなかった。
 暫くして、夏場に和装した母に尋ねると、「汗で化粧が流れるからだ」といわれた。私は首をかしげた。化粧がくずれるのがみっともないというのがよくわからなかった。くずれたものをなおすのが面倒くさいというのなら話はわかるけど、何故に化粧がくずれるのがみっともないのか。しつこく母に尋ねると「みっともないものはみっともないの。いいかげんにしなさい!」と怒られた。親戚の葬式だったので、母は気がたっていたようだ。そういうものかと思い、おとなしく引き下がりながら、では今は何か巻きつけているのかと尋ねると、母は頷いた。確かに母の顔には汗一つ浮いていなかった。喪服からのぞく首筋も、いつにもまして青白いように見えた。苦しくないのかと尋ねると「そりゃ苦しいわよ」と別に苦しくもない様子で言われた。


 それはさておき、これ見よがしで、居丈高なやせ我慢はするのも見るのも嫌いだけど、何がしかの美しさを感じさせるやせ我慢というのはあるものなのだと思ったのはだいぶ後になってからで、今回、この本を読んでいて、あの時の母のやせ我慢というのは、幸田文のいう「涼しげ」なあり方に通じるのかもしれないと思い、うーむと思った。

何を見ても何かを思い出す。

 過日、爆笑問題の番組を見ていたら古川日出男がでていた。古川が語る創作の秘密、というような内容で、散歩をしながら妄想の世界を歩き、それが作品を生みだしてゆくのだという。普段、散歩をしながら何を考えているかを、スタッフがその散歩に同道し話を聞いていたのだけど、その妄想力は凄かった。公園の滑り台で遊ぶ少女を見て、そこから一つの区をまきこむ『滑り台戦争』という話を想像し、「すぐに書けますよ」と言っていた。この人は全身小説家だと思った。
 ところで、少女が遊んでいた公園。そこを見てちと驚いた。学生時代よく花見をしたところだった。少女が滑っていた滑り台は、昔、花見の最中、酔っ払った一年生が何事かを叫びながら、逆走して這い登ろうとしたやつだった。止めるの、無茶苦茶大変だったなぁという事を思いだした。そして、古川日出男綾小路きみまろに似ていると思った。誰も賛同してくれない。