隗より始める、べきか。

 本棚を買おうと思ったのだ。
 引っ越してきてはや10ヶ月。思えば当初は、一冊も手放すことなく一緒に新居にきてしまった本を自分にとって使いやすく、目的別、ジャンル別に並べることを夢見ていたのだけど、気づけばはや10ヶ月。
 夢だった。
 路線を変更し、とりあえずダンボールからすべてだすことを目的に、手当たり次第に本棚に詰め、あふれたものを床に積んでいった結果、堆積した本は後戻りができないところまできてしまった。
 そこで思ったのだ。そうだ本棚を買おうと。そして、大事な本を並べてみようと。
 思えばこれまで、自分にとって大事な本を、それだけをまとめてならべたということがない。誰にでも周期的に読みたくなる本があると思うのだけど、多分にもれず私にもそんな本がある。しかしこれまでは「あれが読みたいな」と思っても、どこにあるかわからず、結局図書館で借りるか、見つけるまで延々と本の山を掘ることになった。もうそんな思いはしたくない。良い機会だし、まず自分にとって特別な本をまとめて収納し、そこから他の本の整理をしてみようと思ったのだ。だんだんとよい考えに思えてくる。
 そのためには本棚が必要だ。せっかくだからステキ本棚を買おう。それも新品のぴかぴかしたものではなく、できれば昭和初期くらいの少し古い落ちついたものがいいなと、暇を見つけては古道具屋をまわるようになった。
 二月ほど探しまわった結果、ある古道具屋で気に入ったものを見つけ、値段との折り合いもつき購入を決める。くさびでとめるタイプのもので、ワックスで仕上げてあるのか、柔らかな木肌が感じられる。店主には配送をすすめられるが、すこしでもはやく本をならべたいと思い、ぐるぐると梱包してもらい、そのまま担いで帰る。電車で6駅、そのあと徒歩。それほど重いものではないといえ、電車に本棚を持ち込んだのははじめての経験。良い経験になりました。もう二度とすまいぞ。
 帰宅し、堆積した本を崩し、混沌とした本棚を探りながら、あ、これならべよう、あ、これこんなところにあったんだ、と二時間ほど格闘し、候補を絞る。試行錯誤し並び順にあたまをひねること小一時間。ようやく収まる。いれたかったけど入らなかったり、見つからなかった本が多々あるけれど、あちらをたてればこちらがたたずで中々に難しい。こんな感じになりました。はじめてこういう形でならべてみたけど、自分の嗜好がわかって面白い。


・一段目(左から右に。見つからない巻が多かった)
佐藤史生『死せる王女のための孔雀舞』(新書館
佐藤史生『やどり木』(新書館
佐藤史生『金星樹』(奇想天外社)
佐藤史生『夢見る惑星 1〜3』(小学館
佐藤史生『ワン・ゼロ 2・4』(小学館
佐藤史生『打天楽』(小学館
佐藤史生『精霊王』(小学館
佐藤史生『鬼追うもの』(小学館
森脇真末味『Blue Moon 2・3』(小学館
森脇真末味『UNDER 1〜2』(小学館
森脇真末味森脇真末味傑作集2 踊るリッツの夜』(小学館
森脇真末味森脇真末味傑作集3 ゼネツィオの庭』(小学館
森脇真末味『夢食いドガ』(朝日ソノラマ
吉野朔実『グルービィ ナイト』(集英社
吉野朔実『王様のDINNR』(集英社
吉野朔実『HAPPY AGE(前編)(後編)』(集英社
内田善美『秋の終わりのピアニシモ』(集英社
吉野朔実『ECCENTRICS 1』(小学館文庫)
吉野朔実『ジュリエットの卵 2』(小学館文庫)
吉野朔実『少年は荒野をめざす 1〜4』(集英社文庫
森脇真末味『おんなのこ物語 2〜3』(小学館文庫)
シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』(ちくま学芸文庫
木地雅映子『悦楽の園』(JIVE)
吉野朔実瞳子』(小学館


・二段目
中井久夫『記憶の肖像』(みすず書房
中井久夫『家族の深淵』(みすず書房
中井久夫『樹をみつめて』(みすず書房
中井久夫『関与と観察』(みすず書房
中井久夫『時のしずく』(みすず書房
中井久夫『最終講義』(みすず書房
中井久夫『私の日本語雑記』(みすず書房
蜂飼耳『空を引き寄せる石』(白水社
蜂飼耳『秘密のおこない』(毎日新聞社
松浦寿輝『散歩のあいまにこんなことを考えていた』(文藝春秋
松浦寿輝『青の奇跡』(みすず書房
古井由吉『日常の"変身"』(作品社)
古井由吉『言葉の呪術』(作品社)
古井由吉『山に行く心』(作品社)
古井由吉『日や月や』(福武書店
古井由吉『招魂のささやき』(福武書店
古井由吉『小説家の帰還 古井由吉対談集』(講談社
井筒俊彦『叡智の台座 井筒俊彦対談集』(岩波書店
エリック・ホッファー『魂の錬金術 全アフォリズム集』(作品社)
杉本博司『苔のむすまで』(新潮社)
杉本博司『現な像』(新潮社)
佐々木幸綱・編『日本的感性と短歌 短歌と日本人2』(岩波書店
坪内捻典・編『短歌の私、日本の私 短歌と日本人5』(岩波書店
岡井隆・編『短歌の創造力と象徴性 短歌と日本人7』(岩波書店
米内包方『盛岡藩改訂増補古武道史』(非売品)


・三段目
山尾悠子『角砂糖の日』(深夜叢書社
山尾悠子山尾悠子作品集成』(国書刊行会
山尾悠子『歪み真珠』(国書刊行会
内田善美草迷宮・草空間』(集英社
内田善美星の時計のLIDDELL 1〜3』(集英社
ユリイカ 総特集 矢川澄子・不滅の少女』(青土社
矢川澄子『静かな終末』(筑摩書房
矢川澄子『いづくへか』(筑摩書房
二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社
永田紅『ぼんやりしているうちに』(角川書店
永田紅『北部キャンパスの日々』(本阿弥書店
穂村弘『シンジケート』(沖積舎
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(小学館
穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社
岡井隆『E/T』(書肆山田)
吉増剛造『静かな場所』(書肆山田)
吉増剛造『生涯は夢の中経』(思潮社
松浦寿輝折口信夫論』(大田出版)
吉増剛造『緑の都市、かがやく銀』(小沢書店)
岡井隆『注解する者』(思潮社
通崎睦美『天使突抜一丁目』(淡交社
通崎睦美『通崎好み』(淡交社
吉野朔実『神様は本を読まない』(本の雑誌社
吉野朔実『LA MASCHERA』(集英社
吉野朔実『天使の声』(集英社


・四段目
パンテオン 上・下』(萌木社)
種村季弘『壺中天奇聞』(青土社
種村季弘『夢の舌』(北宋社
種村季弘『器怪の祝祭日』(沖積舎
種村季弘アナクロニズム』(青土社
種村季弘『影法師の誘惑』(青土社
種村季弘『書国探検記』(筑摩書房
種村季弘『小説万華鏡』(日本文芸社
種村季弘『箱抜けからくり綺譚』(河出書房新社
種村季弘『晴浴雨浴日記』(河出書房新社
種村季弘東海道書遊五十三次』(朝日新聞社
種村季弘『雨の日はソファで散歩』(筑摩書房
種村季弘『食物読本 種村季弘のネオ・ラビリントス 6』(河出書房新社
塚本邦雄『幻想紀行』(毎日新聞社
塚本邦雄『詞華美術館』(文藝春秋
須永朝彦『日本幻想文学全景』(新書館
須永朝彦『日本幻想文学史』(白水社
日夏耿之介日夏耿之介文集』(ちくま学芸文庫
種村季弘『澁澤さん家で午後五時にお茶を』(学研M文庫)
澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫)
矢川澄子『わたしのメルヘン散歩』(ちくま文庫
山尾悠子『夢の棲む街』(ハヤカワ文庫)

珍しいものをみた。

 過日、時間ができたので近所の公園を散歩する。引っ越してきてからわりにちょくちょく来ている公園なのだけど、しばらく時間がなかったので、久しぶりの散歩。空気は肌寒く、むきだしの鼻の感覚がなくなっていく中に、土をふむ感触や、目にはいる木々の色合いが気持ちよく、ふらふらとあるきまわる。
 小一時間もあるいただろうか、すこし休むかと木陰にはいり座り込み、さっき買ったペットボトルの温かいお茶を頬にあて、それから口にふくむ。魂がぬけそうなくらいぼーっとする。あ、こりゃ寝ちゃうかも、と思ったそのとき、目の端になにか動くものがうつった。ん、と目をやると、人が二人、お互いに手先を向け、ゆっくりと円をえがくようにまわっていた。と思うと、ふいに低くなったり、その姿勢から急に上体を起こしたり、互いの手首に触れ前後に押し合ったりと、流れるような動きの中に、妙な力強さを内包している。二人とも西洋人だった。しばらくみていたのだけど、どうも八卦掌のように見える。実際にみるのははじめてなので、断言はできないのだけど、その特徴のある動きはおそらく間違いない。これは珍しいものを、とみていたら、その近くの木立の中になにかがみえた。はじめはただの木かと思ったのだけど、よくよくみれば、人が立っているのだった。
 足をわずかに曲げ、手をゆったりと前にかまえ、その姿勢のままぴくりとも動かず立ちつづけいている。彼もまた西洋人のようだった。まるで木々と一体化したように、人としての存在感が消え、ただ立っている。
 はてこれはなんぞやとみていたのだけど、もしかしてこれは意拳でいうところの站樁というやつだろうか。根が生えたように大地からすっと天に向けて伸びている身体に、恐ろしく強靭なものを感じて、ぞくぞくする。ただ立っている人をみるだけで、こんなにも力強さを感じるのはじめて。いや、良いものをみました。

梅雨ってこんなにスチーム・サウナだったっけ?

 週末に京都へ行く。夜行バスで。「またかよ」「まただよ」という友人とのやり取りにもめげず。出発は21時。ぎりぎりまで飲みかつ食べていたらよい感じにできあがり、バスの中はほとんど記憶なし。隣席が空いていたこともあり、夜行バスとは思えないほど快適に過ごす。でもやや首を寝ちがえる。少し、痛い。

 首を傾けたまま6時過ぎに京都駅前に到着。霧雨の中、7時までぶらぶらし京都タワー地下の銭湯で汗を流す。晴れていれば鴨川の河川敷で昼寝でもと思っていたのだけど、ままならぬ。五条まで歩き、今回の旅行の目的のひとつ河井寛次郎記念館を訪うも開館は10時でいまは8時半。さてどうしようかと思いながらふらふらと北上し、六波羅蜜寺安井金比羅宮を経由して一澤信三郎帆布にたどり着く。

 開店したばかりというのになかなかの賑わい。小一時間物色し、迷いに迷い、欲しかった商品を購入する。といっても、欲しかった色のものが無かったので注文をする。できあがるのは2〜3ヶ月後とのこと。楽しみに待っております。ついでにと、本麻帆布のポシェット(?)を購入する。薄手のものなら四六からA5のハードカバーまでと財布がちょうど入る大きさで、休日用に欲しかったサイズ。手触りもよく、肩にかけたときのふわりとした重みが心地よい。良いものを買いました。なむなむ。

 その足で携帯ショップに行き、料金を払うと、予想外の金額で、受け付けのお姉さんに料金プランの変更を勧められる。むーん、何故に京都でと思いながらも、確かに聞くだに変更したほうが良さそうだったので、変更をお願いする。

 そういえばここまでの間、一食もしていないのだけど、旅行中は何故かあまり食べないでも平気なのでがんがん歩く。河井寛次郎記念館を再訪。さすがに開いていた。中庭にでると、講談社文芸文庫の『蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ』のp205で河井寛次郎が腕をついている、大きな丸い石があり感動する。しゃがみこみ、こっそり河井のポーズを真似するが、なにぶん一人ゆえ誰も写真に取ってくれず、ただ肘が濡れただけだった。 
 あー、ぶらぶらと見ていてちょっと驚いたのだけど、ここって空気が張り詰めていない。日本民藝館は張り詰めた緊張感がある。以前にいった松本の民芸館も同じ張り詰めた感じをうけた。それが良いとか悪いとかではなく、なにかと対峙しているという感じを消すことができなかったのだけど、ここではゆっくりとできた。前者二館が隙がなさすぎて気づかれする感じがあるのに対し、後者は、(趣味の良い)友人の家に遊びにきている、というゆるーい感じをうける。登り窯そばには、どっしりとした木の椅子があった。小糠雨の中、その椅子にからだをあずけぼんやりしていると、睡魔が襲ってきた。気づくと30分くらい寝ていた。よだれをぬぐい隣の部屋にいくと、若い女性が椅子に座り、外をながめていた。人の気配がなかったのでとてもおどろいた。あちらも隣に人がいると思っていなかったようで、ぎょっとしていた。なんとなく気まずい。
 受け付けのそばに河井寛次郎関係の本がたくさん置いてあり、ぱらぱらめくっていると、寿岳文章が書いている。友人とは知らなんだ。

 記念館を辞し、ひたすら北上し(しかし歩いてばかりいるな。帰宅後体重をはかったら、1kg減っていたのもむべなるかな)、「遊形 サロン・ド・テ」というカフェにいく。ここはあの俵屋がやっているカフェで、普段ならちょいと三舎を避けるところだけど、最近読んだ三谷龍二『遠くの町と手としごと 工芸三都物語』(アノニマスタジオ)で言及されており(しかし、この三谷龍二という人は木工デザイナーが本職なのだけど、恐ろしく文章がうまい。ことばの筋目がぴんと立っている)、気になったのでいってみる。店内はこぢんまりとしているけれど、吹き抜けと、大きな窓越しに見える坪庭のおかげか狭苦しさが微塵もない。坪庭の苔が雨をうけてしっとりと色味を増している。なにを食べるかしばし逡巡するも、「俵屋のわらび餅と抹茶」を注文する。しばらくしてでてきたわらび餅は竹筒に鎮座ましまし二切れ入り。箸でつまむと、じんわりと切れる。口に運ぶと、口中の粘膜をやさしく愛撫し、って、いやこれは確かに美味しいです。お抹茶も香り高く、苦味が口の中に残る甘さを取り去ってくれます。最後に、口直しの白湯と、ぶぶあられ。口福。お会計して、待ち合わせしている友人の下に。

 途中、鴨川を渡ると、雨上がりの河川敷に、カップルの姿がぽつぽつと。最近読んだばかりの永田和宏『もうすぐ夏至だ』のこんな文章を思いだす。

 ともあれ鴨川の夕暮れは若いカップルのデート場所として、私の学生時代は一種の風物詩になっていた。(中略)
 このアベックたちが実に整然と見事に等間隔にならんでいるのは、対岸から見ると壮観である。どうして見ず知らずのアベック同士が、あんなにメジャーで測ったように整然と並ぶのか。
 誰もが気づいていたことだが、私の学生時代、研究室の先輩たちがあるときその謎を解くべく、教室総出で観察をしたのだそうだ。伝聞だが、たぶん本当だろう。教授まで動員して(率先して?)、対岸から観察。まだ陽の高いうちから陣取り三々五々集まってくるアベックたちの〈座標〉を経時的に(!)記録していったという。たいそうなことだ。
 ちなみに私がいたのは理学部物理学科。教授は流体熱力学、助教授は素粒子物理学が専門の理論物理学者であった。落ちこぼれていてほとんどわからなかったが、微分方程式が日常的に出てくるような部屋である。
 その野外実験でなされた〈大発見〉は、「中点選択原理」あるいは「相互斥力原理」というもの。
 まずどこかにアベックが席を取る。次にきたカップルは、できるだけそこから遠ざかろうとして、離れたところに座る。次のカップルは、そのまた真ん中に、という具合に座っていった結果が、あの見事な等間隔なアベックの花ということになるのである。
 なんだかしきりにアホらしいという気がするが、そして見なくとも想像がつきそうなものだが、何にしても実地の検証をしないではいられない科学者の面目躍如、私の好きなエピソードである。まことにつまらない、あるいは意味のないことにみんなで興味をもってしまうところが、とてもよいのである。


永田和宏「アベックたちの座標」(『もうすぐ夏至だ』白水社 p92〜93)

 良い話だ。
 友人と合流し、コーヒーを喫しながら近況報告。就職し、正社員になったという。めでたい。仕事は大変らしいけど、真面目で頑張りやな人なので、無理をせず自分のペースで進めていって欲しいと思います。もう一人と合流し、飲み屋に。こちらもなかなかに大変みたいだけど、元気そうで安心しました。みな大人になってゆく。

部屋に見知らぬキノコが生えそうな湿り気。

 過日、図書館で「SFマガジン」のバックナンバーをひっくりかえし、あっちゃこっちゃとコピーをとっている最中、意識の端になにか気になる文字列がひっかかったように思いページをめくる手をとめ紙面を見ると、第17回ハヤカワ・SFコンテストの最終選考発表だった。選考委員は眉村卓柴野拓美川又千秋今岡清の四人。なんでこんなところにひっかかったのだろうと思い見ると、入選作は、第一席がなく、第二席が森岡浩之「夢の樹が接げたなら」、第三席が松尾由美「バルーン・タウンの犯罪」。この二人、同時に受賞していたのかと驚く。なんて豪華な同時受賞。これに目がとまったのかでもなんだか違うような気もと思いながら、ぱらぱら選評を見ていると、最後にあった採集選考候補作のあらすじに手がとまる。そこで目にしたものに驚愕し、思わず声をあげてしまう。そこには森岡と松尾の他に、最終選考まで残った三人の名前と作品のあらすじがあった。その中の一つにこうあった。
 古川日出男「アンダー・ウォーター」。
 どうやら私の意識にひっかかったのはこれだったらしい。仰天する。この古川日出男って、あの古川日出男だよね。まさか同姓同名の別人、と思うもいやまさか。ちょうど前日に中村明日美子ウツボラ』を読んだばかりだったので不穏な妄想が一瞬浮かぶもいやいや、これはあの古川日出男だろう。発行年を見ると1991年の11月号。古川の事実上のデビュー作『ウィザードリィ外伝2 砂の王1』が1994年。と、そういえば何かでこの辺の事情を読んだことがあったような気がするなと思い、いま部屋を漁ると、「ユリイカ」の2006年8月号「特集*古川日出男 雑種の文学」が見つかる。ビンゴ。インタビューで古川はこんなことを語っている。

― その仕事(ウィザードリィのノベライズ、『ウィザードリィ外伝2 砂の王1』の執筆―引用者註)を始めた契機は?
古川 俺演劇やってたんだけど、プロとして初めてやったのがこの『ウィザードリィ』っていうゲームのイベントだったの。そこで『ウィザードリィ』のノベライズをしていたベニー松山さんと知り合った。そのイベントが一月五日だったんだけど、それが終わったあと、俺は初めてシナリオじゃなくて小説を書き始めた。三ヶ月かからずに一○○枚のものを書いて、それを早川書房のSFコンテストに応募したら最終選考に残ったんだけど、見事に、SFとは認められないって否定された。なるほどって思ったよ。俺はそういうジャンルとか新人賞とかじゃないんだなと。
青土社ユリイカ」2006年8月号 p156)

なるほど。ちなみに、選評は以下の通り。

選評
眉村卓
◎アンダーウォーター==「これは長編の構想だ」「出だしは一応配慮を感じる。前フリはうまい」「『音素』が他の人に受け入れられるならば、だが」「『音素』以外にいい方はなかったか」「説明がかえって欠陥になっている」「勢いあり。勢いが辛うじて支えている」→設定と説明に無理がある。やや残念。
早川書房SFマガジン」1991年11月号 p94)


柴野拓美
「アンダーウォーター」
 はっきり言って、これはSFの世界とは思えない。文章はかなり粗いが読ませかたは心得ている作者のようで、冒頭のアクションなどまことに快調だったが、読み進むにつれて収集がつかなくなった。機械の自意識に新元素に亡霊という奇怪なとり合わせ、特殊な人間の声帯だけが操作できるという設定とはおよそかけ離れたガジェットのかずかずなど、いたずらに道具立てがふえるばかりで、有機的なつながりがどこにも見られない。また、都市の情景とその住人の不在や、地球的な視点の欠落も気になった。機械と人間の自我の相克による幻覚世界というせっかくの好発想も、これではぶちこわしである。(ところで、もし鯨を魚と誤認したのなら、変身した人間になぜ鱗が生えるのだろう?)
(同上 p95)


川又千秋
(…)入選には洩れたが、「アンダー・ウォーター」は、非常にアクティブなビジョンが魅力で、五編中もっとも勢いを感じさせる作品だった。ただ、基本設定が余りにも乱暴(“音素”云々は無理で、しかも不用)でネーミングにも粗雑さが感じられ、評価を落とした。
(同上 p96)


今岡清
「アンダー・ウォーター」はSF的な設定がとても気になってしまい、どうも作品の中に入って行きづらいものを感じてしまいました、べつに科学的に厳密でなければいけないなどというつもりはありませんが、音素というどう考えても元素として存在し得ないものを設定したり、電子麻薬によって機械の無意識野が引き出されるというアイディアなど、どうも首をひねってしまいます。言葉の意味や内容と無関係に単純に連想だけでアイディアが作られているようなのですが、それでは読者を限定してしまうのではないでしょうか。
(同上 p98)

(どうでもよいが、なぜ眉村と柴野は「アンダーウォーター」として、中黒(「・」を入れていないのだろうか?)

 なかなか厳しい評価をされているこの作品。ではどんな内容だったかというと、あらすじによればこの通り。

●最終先行候補作のあらすじ
「アンダー・ウォーター」
                古川日出男

 コンピュータに電子麻薬を投入することによって機械の無意識野を得るという操作の行なわれていた未来。ひとりの音楽家が、その機械の無意識野を全世界を覆うコンピュータ・ネットワークにリンクして、人間の現実と機械の現実の混在する多重現実世界を現出させてしまった。その世界では音素と呼ばれる新種の元素が満ちている。それを特殊な声で操ることによって現実をひとつに束ねることが発見され、その能力を持つものはRA、その能力は「操夢」と呼ばれる。人間達は「操夢」を使い拠点となる都市を作り始める。ある時、都市〈ドッグ〉に機械部分を組み合わせた魚の形の物体が落下する。機械魚は操夢能力を使って現実を作り変え、大地を水に兵士を鱗の生えた肉塊に変えてしまう。機械魚は主人公の陶との激戦の後、〈ドッグ〉の本拠地のある元水族館の建物に向かう。操夢下の現実に出現する亡霊の排除を生業とする映像屋と呼ばれる男は、陶の依頼を受けて真相の究明に乗りだし、やがて操夢のために鼻腔発声をする生物であることを突き止める。機械魚は水族館を襲撃し、それと戦う陶はついに魚の攻撃で死を迎える。破壊しつくされた水族館にやってきた映像屋は機械魚を操夢によって操り時を逆行させ、ついにそれが衛星軌道で誕生したシロナガスクジラであることを知る。映像屋はそのクジラを幻想の大海の中に解き放ってやり、また音素に刻まれた陶の亡霊に安らぎを与えてやるのだった。
(同上p100)

 読んだ瞬間、津原泰水の『バレエ・メカニック』を連想してしまう。散りばめられた「音楽家」「多重現実世界」「音素」「声」「操夢」「〈ドッグ〉」……というキーワードを見るだけで、なるほど古川日出男はこの頃から古川日出男だったのだなと思ってしまう。どっかの版元、『ウィザードリィ外伝2 砂の王1』』とこの「アンダー・ウォーター」を合わせて「古川日出男ver0.0」みたいな形でだしてくれないものかしら。無理か。

 ところで、このコンテストで最終選考まで残った作品に、古川の他にも気になる作品があった。香野雅紀「夢見る瞳」という作品。

 川又千秋の選評の言葉によれば以下の通り。

二、三席に選ばれた作品に、それぞれA、Aマイナスをつけて選考会に臨んだ評者であるが、実を言うと、残る一篇「夢みる瞳」には満点のAプラスをつけていた。これはJ・G・バラードの風景にボリス・ヴィアンの人物を配し、レイモンド・チャンドラーばりのホテル探偵が舞台回しを務めるという、極めて……評者の趣味主張に合致する……きらびやかな作品であった。この一○四枚を、私は、ほとんど陶酔して読み終えた。残念ながら、他の選考委員の評価を得るに至らなかったが、私個人の満点の評価は今も些かも褪せていない。このコンテストの選考を三年担当したが、最大の収穫だと感じている。
(同上p97)

「J・G・バラードの風景にボリス・ヴィアンの人物を配し、レイモンド・チャンドラーばりのホテル探偵が舞台回しを務める」作品! 他の審査員の選評をみると、中々に評価のわかれるようだけど、これは読んでみたくなるでしょう。気になる。

「濃すぎる光を持てあましてるのね」アイスクリームなめつつ見る月(安藤美保)

 先日友人達と飲んでいて、木村紺『からん』の話になった。
 一巻の第〇話に、関東にいる人達がでてくるが、あの伏線は回収できるのか。できるとしてもこの展開の速度を考えると、いったい木村紺はどれくらいのスパンでこの物語を考えているのか。やたらに構築性が高くないか。『神戸在住』とは真逆の構築性。木村紺にいったいなにがあったのか。柔道にしても内容がちゃんと描かれているけどブレーンがいるのか否かどうなんだ。寝技なら、という言葉に高専柔道を連想した人、はーい、はーい、雅が実は三校の流れを汲む高専柔道を修めていたみたいな!? あーいいねそれ! 子供時代に近所に住む爺さんから三校の流れを汲む高専柔道を教わったのな、で、実はその爺さんは戦時中大陸で……。はいそこまで。伏線といえば、物語の合間合間に挿入される、雅と京が夏に一緒にいる場面というか心象風景? あれはなんの伏線なのだろうか、などなど『からん』の話は尽きず。今後どんな展開になるんだろうね、という中で「そういえば」と私がいった。
「金春っていつ目覚めるんでしょうね?」
「ん? 目覚めるって何に?」
「そりゃ決まってますよ。己の身の内に流れる『夜叉神の翁』の血にですよ」
「……君が何をいいたいのか全然わからないのだが」
「いや、ですから、金春といえば金春一族。金春一族といえば『明宿集』で子孫の金春七郎氏勝。金春七郎氏勝といえば『夜叉神の翁』。物語の中に『金春』という名前と、武道の話がでたらこれはすぐにつなげて考えたくなるじゃないですか。金春の中に流れる異形の血が沸騰し荒ぶる神になるわけですよ。で、そこでそれを鎮めるのが渡辺流の舞を修める九条京なわけですよ。ちなみにいうと京舞の井上流には三代目の頃からどうやら観世能が入っているみたいなんですけど、もしも渡辺流に井上流の影響があったとしたら、金春の一族と観世流の動きの激突なわけですよ。これはあるでしょ」
 いっせいに突込みが入る。
「それはない」



 というわけで『からん』の四巻がでたわけだけど、今回も凄かった。高瀬が柔道をしている理由を比嘉が尋ねる場面。

「私はね 人間の可能性を知りたいの 才能に恵まれた者の到達点! 才能の乏しい者の限界点 そしてこの自分がどこまでゆけるのか」
「困難に挑戦しそれを乗りこえ 人間が成長するその瞬間! それを目のあたりにしたとき ドッ と血が脈を拍つ! 掌が汗ばむほど興奮する!」
「あえて言うなら その瞬間に居あわせるのが私の望み なのかな?」


木村紺『からん4』p72-73

 ふと、『からん』という物語を「血」と「才能」と「努力」という三角形で考えてみると面白いと思った。
 これは直感的な話ではあるのだけど、おそらく物語(相対的に優劣を決定するような物語には特に)には「血」の物語と「才能」の物語と「努力」の物語がある。
「血」の物語はあるキャラクターの「特殊」な能力の理由を「血」に還元する(キャラクターが属している一族がその能力を保証する)。
 それに対して「努力」の物語は、あるキャラクターの「特殊」な能力を「努力」のおかげだとする。この物語の起源は明治維新の後、立身出世の物語により、より強化されたような気がする。そして「才能」の物語は、「血」の物語の近代以降の流れの中にあるように感じる。伝奇を思うと、そこに伏流するのは近代以前の「血」(=一族)の物語で、その否定形、あるいは一種の変容として「才能」という物語が発生したのではないかというような気がする。ある能力が、ある一族ではなく「個人」に属するものとして理解されるようになる。先天的な能力と後天的な能力が、そのように語られるようになる。「血」と「努力」という対立項から「才能」と「努力」という対立項へ。
 京都という古都を舞台にしているためか、「血」の物語を語りやすくしているようにも思える。ある一族の話、特殊な才能を持つ人間の話、努力をし続け何かを手に入れようとしている人間の話。

 それはさておき、今回語られる京の能力。見たものを映像のように記憶する「直感像記憶」。一巻の頃からこの「視る」能力の伏線をずっと張ってきていたのが、ここにきて一気に回収された。またその手つきが美しい。京の「異質性」をより特徴付ける能力なわけだけど、もしこの「直感像記憶」を「自閉症(あるいはアスペルガー症候群)」と置き換えれば、この『からん』という物語は木地雅映子が書いている物語とそのままつながるように思える(特に雅が京にその能力がいかに他の人と違うのかを説明する場面)。異質な存在とそれをとりまく人間の物語。そういえば『神戸在住』で、桂が『氷の海のガレオン』を読んでいる場面があったけど、活字倶楽部あたりで木村紺木地雅映子の対談とかやってくれないものだろうか。

 さて、巻を追うごとに雅の認識能力と分析癖がどんどん強くなっている印象をうけるのだけど、今後これはどうなるのだろう。ものすごい危うさを感じる。そもそも、何故15、6歳の少女がそのように物事を見る、考えるようになったのかということを思うとやはり異様な感じがする。この巻の最後、雅と萌のやりとりが、今後の伏線になっているのだろうけど、雅は、なにがしたいのだろうか。色々なものを自分の目指すところへコントロールしようとしているように見えるし、そのようにできると考えているようにみえる。あるいは、その予行練習か*1。人間関係をパズルのように捉え、あるべき姿へ淡々とピースを動かしているような感じ。
 これはけっこう恐い。
 自分のことを「他人事みたいに話す」客観性を持った人間が、他人を、周りをどう見るのか。
 こういうタイプの人間はえてして自分に理解できないものがある、ということを本当には理解できないように思う(というか、理解できないものとは、その定義上、理解できないものだから、当たり前の理屈ではあるのだけど)。今回も、京の「異様な」能力を見て、「隠すとより異質さを浮き彫りにしてしまう」と考えた雅は、皆の前で、その能力がどのようなものか説明する。この場面、雅は「京は異質な存在であるが、その異質性を隠すより、皆の前で説明をすることで、その異質性を薄めようとする」わけだけど、雅の仲間達とそれ以外のクラスメートを分かつようなコマの運びのうちに、結果として京の異質性をより強調してしまっているように読める。
 おそらく雅には自分の、その分析的な能力がある種の傲慢さにつながる危うさを持つということに対する自覚はあり、そのような傲慢さを表にださないだけの知性はあるのだけど、自分が傲慢だとわかっているが故に自分は傲慢ではない、と思っている人間が漂わせる傲慢さに、雅は気づいていないと思う。そしてある種の人間がその傲慢さに敏感だということにも。そこに悪意や敵意が生じるということにも。何かをなそうとしている人間は往々にしてそのような悪意や敵意に足元をすくわれる。一度発生した悪意や敵意の除去や調整には莫大なコストがかかる。だから賢い人ははじめから悪意を生じさせないように振舞う。雅もそれはわかっていて、予め悪意や敵意が発生しないように振舞っているのだけど、そのような振舞いがより傲慢な印象を与えかねないということに鈍感なように見える。
 ただ、そういう人は常にコスト計算をしていて、周りに気を配り悪意や敵意を生まないようにすることが、発生した悪意や敵意を潰すことよりもコストがかかると思えば、平然と周りを無視するようになる。これは恐い。「なんか九条さんて 恐いね」というクラスメートの台詞は実は雅に向けられたもののようにも思えた。
 ところで、パニックに襲われそうになった雅が、一巻にでてきた、おそらく親族である「保」という青年を思いだすことでパニックを抑える場面。これは今後、どのような展開を見せるかも気になった。

 あとはコマの外のモノローグとコマ内の発話がつながる瞬間は気持ちがよいなーと。具体的には第18話の終わり。物語内の発話、つまりそれまでの流れの中に生まれる発話と、いきなり挟み込まれるモノローグという異なる位相にある言葉が一つにつながる瞬間。一つの台詞が二つの意味を持つように描くというやり方は、もしかするとこのマンガの特徴の一つかもしれない。

 そういえばここ最近、衿沢世衣子『ちづかマップ』、麻生みこと路地恋花 1』、中村明日美子『卒業生-春-』、あとこれはちょっとしかでないけど、西炯子娚の一生3』と、京都がでてくるマンガによく出会った。最近、本当に久しぶりに『聖★高校生』の新刊をだした小池田マヤにも、ぜひ京都モノを描いて欲しいと思ったことであるよ。京都の学生生活とか。肉欲まみれの甘酸っぱさが感じられるような。

*1:あ、なんでこんなことを感じたのか思いだした。榛野なな恵の『パンテオン』の桃子と彰子の関係を重ねてしまったからだ。

中国行きのプレイボーイ

 東京に山はない、なんてことは勿論なく立派にあるわけだけど、でもやっぱりどうもしっくりこないよな東京の山は、などと思ったのは帰省途中の車内で那須塩原に入った途端にあらわれた雪をかぶる無骨な山を間近に見たからだったりするのかもしれない。あー、やっぱ山っていったらこーゆーのだよなー。

 実家に用ができたので、正月に帰省したばかりだというのに、またゆくはめになる。使い残した18切符がちょうど往復分あったのでそれを使おうと、一番楽な経路を調べるためネットをみる。同時に別な調べものをしていると、たまたま佐藤史生展が開かれているという情報がひっかかる。マジで!? 帰省諸々のことなど忘れ、検索をすると、どうやら石ノ森章太郎ふるさと記念館というところでやっているらしい。石ノ森章太郎ふるさと記念館? 石巻にあるやつだっけ? と思いながら、そこのサイトを見ると、石巻のものとは別に、石ノ森の出身地にあるものらしい。そういえば佐藤史生は石ノ森の高校の後輩でその辺りの出身。何か関係あるのかとサイトを見れば、郷土出身のマンガ家展だという。よくよく見ると、実家から電車ですぐの場所だった。知らなんだ。気鬱だった帰省に一条の光。

 金曜の昼過ぎに発ち、夜に実家到着。車内では小川洋子『博士の本棚』(新潮文庫)と、駅にゆく途中の古本屋で買った松村栄子『至高聖所』(福武書店)を読む。松村栄子といえば『雨にもまけず粗茶一服』(ピュアフル文庫)を以前読んだとき気になってたことが一つあり。それがなにかと問われれば、あれは実は「ライ麦畑」へのオマージュだったりはしないだろうかということ。この物語は最後に主人公の友衛遊馬が比叡山天鏡院というお寺に入るところで終わる。当然この物語にはその語り手がいるわけだけど、それは実は友衛遊馬本人ではないかと。この寺に入った後、そこで語りなおしたものがこの物語なのではないかと。で、「天経院」を「癲狂院(=精神病院)」と解せば、「ライ麦畑」のホールデン・コールフィールドが物語でたどる道筋と似たものを感じるのだけど(ただ、ホールデンがいる場所(=物語を語る場所)は、野崎訳では「この病院」、春樹訳では「ここ」とだけなっていて、明確に精神病院としているわけではない。そういえば『翻訳夜話2』で村上春樹ホールデンは精神を病み、そのためにおそらくはそういった病院に入っているのではないか、と読み解いていた用に記憶しているのだけど、部屋から本が見つけだせない…)。
 もっとも「ライ麦畑」は「わたし」が「あなた」に語りかける形式であるのに対し、『雨にもまけず粗茶一服』は明確に三人称だという違いがあるけど、ってそれが違うとぜんぜん違うか。妄想か。私が癲狂院に行かされる。

 翌日の午前に用事をすませ一路、石ノ森章太郎ふるさと記念館へ。実家のある駅から数十分、石越という駅で降りる。駅前にはタクシーが二台止まり中で運転手が退屈そうに携帯をいじっている。サイトで見た情報によると、バスかタクシーで行くしかないようだけど、タクシーだと2000円以上かかるらしい。ちょっとなーと、バス乗り場をさがすもよくわからない。いや、乗り場はすぐに見つけたのだけどどうやら土日は1日2本しか走っていないらしい。次のバスまで約四時間。これでどうやってバスでゆけと。諦めてタクシーに乗る。だだっ広い田圃に沿って15分ほど走る。メーターが回る。2500円。この時点で帰りにタクシーを使うのは止めようと決心する。


  

 



 受付のすぐ横が企画展示室。入ってまず右手側には佐藤史生のプロフィールとあいさつの辞。左手側には奥友志津子、竹宮惠子、武田京子、たらさわみち、坂田靖子といったマンガ家からの絵とメッセージ付き色紙が。なんと豪華な。坂田靖子のは佐藤史生の周りをぶよぶよとしたエイリアン(?)らしきものが取り囲み、「やっぱりこんな仕事部屋なんですね」というようなコメントついていた。そのまま進むと、右手側の壁に沿って原稿が展示されている。はじめは「初期作品」として、「恋は味なもの」、「スフィンクス」「花咲く星ぼしの流れ」が一枚の額の中にある。続いて「美女と野獣」が8p、「星の丘より」5p。その隣には青いジャケットに青い帽子をかぶった少年のカラーの絵が額に入り飾ってある。題がついていなかったけど、おそらく「まさかのときのハーレクイン・ロマンス」の主人公。『やどり木』のカバーの内側のやつ。そういえばあとり硅子の「これらすべて不確かなもの」を読んだとき、この作品を思いだしたなぁ……。話がそれた。続いて「青い犬」5p、「金星樹」6p、「一角獣の森で」6p、「レギオン」5p。

 そしてそしてマイフェイバリットの『死せる王女のための孔雀舞』から表題作の「死せる王女のための孔雀舞」が4p。展示されている原稿は、表題作の最後のあたりの場面。これは七生子という少女を主人公にした連作短編で、理念としてだけ存在する少女を具体として描きだした傑作。いや、佐藤史生の描く「少女」はみな素晴らしいのだが。『夢みる惑星』のシリンしかり、『ワン・ゼロ』『打楽天』のエミー、しかり、「楕円軌道ラプソディ」の(なんだっけ、あの女優の娘。名前が思いだせないし、本も見つからない……)等々。
 この短篇集は名台詞が多いのだけど、七生子の同級生で、学内でマドンナと呼ばれる楯縫まどかがつぶやく「私、十七年間ひとりも本当の友達をつくらなかったわ。十四歳までは高慢のために。そのあとは絶望のために」(「さらばマドンナの微笑」『死せる王女のための孔雀舞』(新書館)p114※句読点は引用者による)という台詞が一番良いなー。あとは「我はその名も知らざりき」の会話。

「なぜ……自分を愛してくれる人を軽蔑するんです?」
「あまりに深く自分自身を憎んでいたからね。でもきみは…七生子。彼と同じ魂に…正反対の精神(ルビ:こころ)だ。あったかい血が流れるピカピカのハートだ」


「我はその名も知らざりき」『死せる王女のための孔雀舞』(新書館)p153※句読点は引用者による

 良いなー。

 その隣には『夢みる惑星』から「午睡」と題されたモデスコ王のカラー絵が一枚。で、『夢みる惑星』が24pに、イリスと龍の絵が一枚あり、ここで折り返し。突き当たりの壁には先のイリスと龍の絵が引き延ばされ、その両脇にとイリスが発砲スチロール(?)に印刷され、立っていた。『夢みる惑星』がまだ続き6p、外伝の「雨の音」が4pでこれはカラー。ここまでが初期作品で、次からが中期作品とある。

 まずは『ワンゼロ』(「・」なしママ)が36p、と、あれこれなんだっけ、「精霊王」(?)(「タオピ」かも違うかも……)を拡大したものが一枚。「夢喰い」5p。『ワン・ゼロ』の原型の「夢喰い」が、『ワン・ゼロ』の後にあるのが不思議だったけど、スペースの都合だろうか。で、ここまでが中期作品。続いて後期作品。『打天楽』5p、『羅綾王』5p、『やどり木』6p、「緑柱庭園」2p。で、会場の中央部のボードには『夢みる惑星』―これなんだっけ…表紙に使われた絵と、口絵に使われたやつかな…、―のカラーの絵が3点。その下にはガラスケースがあり佐藤史生の単行本や雑誌(メモし忘れたのだけど「グレープフルーツ」だったかな…)が陳列されてある。裏側にはやはり『夢みる惑星』が3点。『精霊王』1p、『神つかい』1p、『鬼追うもの』1p。
 壁際に戻ると、『ワン・ゼロ』のマユリの絵が一枚額にあり、『タオピ』5p、「まるたの女」4p、『鬼追うもの』5pと、これだけ何故かプチフラワー編集部用(写植の大きさの指定と270×180とサイズが書いてある) の用紙に書かれた『心臓のない巨人』6p、最後に「青猿記」が1pあって原稿はおしまい(あれ、記憶違いかも。流れ的にここに「青猿記」あるの変か?)。
 
 後は、佐藤史生の仕事部屋が再現されており、畳敷きに机の上のスケッチブックには、登場人物のラフ(? たぶん一人は「楕円軌道ラプソディ」の女優の娘だと思う)と、創作メモ(「ダイラタンシー現象 歩ける気体?」とか、「パレイドリア」「ダツラは逆にアセチコリンを抑制する→瞳孔が開く=サリン ベラドンナ」などなど。そういえば「ベラドンナ、瞳孔」というと『黄金拍車』思いだすなぁ)が書かれていて非常に興味深かった。その後ろに、本人の旅行写真(?)や『精霊王』と『夢みる惑星』の絵があった気がするのだけど、メモが汚くてよくわからない。
 それにしても佐藤史生は本当に物語に対して贅沢な作家だ。あの傑作『夢みる惑星』がたった4巻(文庫は3巻)で終わっているなんて信じられるだろうか。あの傑作『死せる王女のための孔雀舞』がたった4話しかないなんて信じられない。いくらでも、物語を続けられそうなのに、この短さにまとめられる、まとめてしまう技量というか思い切りというか、贅沢だよなぁ…。見終わって、受付にいたスタッフの方と少し話す。きびきびとした非常に感じの良い方だった。

 せっかく来たしと常設展も見る。トキワ荘時代の部屋を再現したもの(ポケミスがやたらあった)や、多くのマンガ家が、石ノ森章太郎に寄せたコメントと絵があったりしたのだけど、中でも原哲夫の描いた009と、高口里純の描いたあすかと009の絵に爆笑する。後はビデオライブラリーで、仮面ライダーシリーズを見たりとか。一通り見て回り14時ちょうど。記念館を後にする。さて、どうしたものか。念のためバス亭を見に行くと、もう今日はバスがこないらしい。来たときに乗ったタクシーで見ていたら、時速40kmで15分くらいだったので、駅までは10kmくらいだろう。すると私の足だと2時間弱。ほぼ一本道のようだったし、天気も良いし、歩くかと歩き始める。

 
 *1

 
 風がとてもつよい。山に囲まれた盆地でなにも遮るものがないせいだろうか。何度か体ごと持っていかれそうになる。一番怖かったのは、狭い橋を歩いていたとき。車が脇ぎりぎりを走り抜けていったので、驚いて反射的に手すり側に動いた瞬間、突風が吹き、勢いついたからだがそのまま手すりを越えそうになった。危なかった。
 止まない風に体感温度がぐんぐん下がるのがわかる。これはいけないと、意識的に足を早め体を温めようとする。見渡す限り人のいない田舎道を早足で歩いているうちにテンションが妙なことになりさっき常設展でみた仮面ライダーが頭に浮かび、すると何故か同時に、藤子Fの描いた、大人になった正太のもとにオバQが来る「劇画オバQ」が割り込んで来て仮面ライダーと混じる。

 ショッカー壊滅から15年。仮面ライダーとともに闘った少年達も大人になり、日常の中でその記憶も次第に風化しかかっていた。そんなある日、元少年のもとを仮面ライダー1号が訪ねてくる。今も悪の集団と闘っている、という1号ライダー。夕飯の用意をしながら、元少年の妻が旦那にたずねる。あなた、あの人いったいなんなの? いや、子供の頃お世話になった人で……。仮面ライダーとかいってるけど大丈夫? 特撮ファン? でもいい歳してあのコスプレはないんじゃない?というか何しに来たの?いつまでいるの?云々。
 夕飯後、酒を飲みながら、ショッカーの秘密基地に潜入したときの思い出を語り合う二人。だんだん興奮してきてライダーパンチ、ライダーキックと、身振りつきで話す1号ライダー。ほろ酔いで楽しそうに相づちを打つ元少年。お酒を持ってきて、無表情に私明日早いからもう寝ますねと言う奥さん。
 翌日、元少年は昔の仲間を集め飲み会をひらく。久しぶりに集まった少年たち。一人がライダー誓いの旗とかなんかそういうのを持ってくる。彼は大人なってからも、またいつの日かライダーとともに闘うのだと、今でも厳しい訓練を己にかしていた。懐かしさに浸る元少年たちの前で、彼は言う。僕らはライダーとともに世界平和のために闘うという崇高な目的をもっていたじゃないか!そして僕らはそれを果たしたじゃないか!あの時の気持ちをみんな忘れたのか!と。感動し盛り上がる元少年たちと1号ライダー。そうだ僕たちだってまだまだやれるさ! よし仕事なんかやめて、今も悪の組織と闘い続ける1号ライダーと一緒に闘おう! 云々。
 さらに翌日。早く奥さんに昨日の話をしろという1号ライダー。いや、あれは酒の勢いで、ともごもごつぶやく元少年。そこに奥さんが嬉しそうな顔で言う。「子供ができたみたいと」と。「聞きましたか1号ライダー! 僕、パパになるんだ!」と喜びに気も狂いそうな勢いで職場へ向かう元少年。その姿を見て1号ライダーは呟く。「そうかもうみんな子供じゃないんだな……」バイクにまたがりマフラーをたなびかせ爆音とともに夕日の向こうへ去ってゆく一号ライダー…って、うわ、駄目だ、景色と相俟ってものすごく悲しくなってきた。妄想止め止め。

 結局駅に着いたのは15時50分だった。1時間50分。まあそんなものか。電車に乗り実家のある駅に戻る。駅前をふらふらしていたら、古本屋を見つける。火の気のない店の中を物色することしばし。かじかんだ手で以下のものを購入。安かった。


谷崎潤一郎他『あまから随筆』(河出新書
丸谷才一『日本語のために』(新潮社)
カミュ『反抗の論理 カミュの手帳―2』(新潮文庫
村上春樹『中国行きのスロウボート』(中公文庫)


 『中国行きのスロウボート』は、小川洋子が『博士の本棚』で絶賛していてなんだか読み返したくなっていたのだけど、ちょうどあったので購入。再読するのは10年降りくらいかも。意外に細部は覚えていたけど、驚くほどに内容を忘れていて驚く。その細部の記憶も偏っていて、例えば表題作の「中国行きのスロウボート」で、主人公がバイト先で知り合った中国人の女の子を山手線の逆側に乗せてしまうという場面。女の子を山手線の逆側に乗せてしまう、というところは覚えていたものの、何故かそれを主人公の従姉妹で、しかも13歳位だと記憶していた。あと、登場人物の誰かがバルザック全集を持っていた、という記憶があり、何故か山手線に逆に乗せられる(私の記憶の中では)少女の兄が持っていたような気がしていたら、持っているのは作品自体違う「ニューヨーク炭坑の悲劇」の、主人公の友人だったり。あとは読み直していて、この山手線に逆に乗せてしまうエピソード、終わり方も含め、携帯電話があったらなりたたないのかと思い、不思議な感じがしたりしたり。

*1:1/23追記 何気なくこの「瀧神社」というのを検索したら、こんなサイトがひっかかった。お約束の黄金伝説に……やっぱり慈覚大師か! 円仁……恐ろしい子!!

みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ 鷹羽狩行

 年末、京都に遊びにいき、病院にいくという貴重な経験をする。京都の病院。看護婦さん(今は看護士さんというのか?)が舞妓さんの格好をしていたらどうしようとどきどきしていたら、そんな人はいなかった。同行の人にいうと「そんな人おるわけないじゃないですか」と呆れたようにいわれる。東夷の妄想力をなめるなよ、ものすごく凡庸なんだぞ、と思うも、まあ、呆れるよな。
 そういえば以前、京都にいった時のこと。同行の人と鴨川の上を渡りながら河原に等間隔で座るカップルを見て、あれは実は大部分が京都の観光課にやとわれたアルバイトなのではないだろうかという話になったことがある。あんなにいつもいつもきっちり等間隔で一定数のカップルが並んで座っているのはどう考えてもおかしい。安定して供給される仕組みがあるのではないだろうかと。いや、最初は自然発生だったのかもしらんが、「名物」になるに及び維持する必要がでてくるのは世の常。学校や会社で男女別々に集められて、当日、男女一組になって河原の決められた場所に座って楽し気に話しているふりをする。時給800円くらいで。いいな。東京に戻ってから、そんな話をしたと友人にいうと、実は京都では有名なアルバイトだけど、観光客には秘密で、京都に住んでも三代以上になるまでは明かしてもらえない秘密のバイトなのではないだろうか、という話になる。
「ということはつまりですよ。進学で京都に来た男の子がひょんなことからそのアルバイトをすることになるわけですね」
「季節は夏な。大学生活はじめての夏休み。サークルかなんかで仲良くなった生粋の京都人が本当はやる筈だったんだけど、急な用事で行けなくなり、代わりを頼まれるのな」
「事情は話されないまま、とにかく待ち合わせの場所にいって女の子にあって、河原で二時間話してきてくれとかいわれて」
「そうそう。待ち合わせは土下座前とかね。で、二時間話して別れるんだけど、そこでであった女の子の事が忘れられず、捜すことに……」
「なんだか森見ちっくですけど、いいですね」
「いいよね」
よくないよ。


 数年ぶりに年末帰省。実家に着いたその足ですぐに雪かきを命じられる。終わったら切れていた電球の変えを命じられ、三つ目を変えたところで「ついで」に神棚の準備をするようにいわれる。いいのか「ついで」で。神棚に幣束をかざり、食べ物を供え新しいお札をかざる。古いお札類をひとまとめにし、灯明を供える。庭にある地主神の社、台所、風呂場、手水場などにも幣束をかざりやっと休んでいると、深夜、年が変わったら神社にいき、さっきまとめた古いお札類を納めてくるようにと母にいわれる。寒いから面倒にございます、というと、たまの帰省くらいいうことを聞くようにいわれる。たまの帰省だからこそもう少し労ってくれてもよいのではないでしょうかと提案しようかと思うも聞き入れてくれないは必定なので、口を噤む。22時過ぎ、眠くなったといい母が寝床に引っ込む。
「良いお年を」
「良いお年を」
 一人になった居間で紅白が終わるタイミングに蕎麦をゆであげ、ちょうどはじまったジャニーズカウントダウンを見ながら、あー若い子はええやねーと食べだしたところで、このシチュエーションなにかにあったような気がするというか「きのう何食べた?」にあったよということを思いだし悶絶する。
 食べ終わったところで23時55分。外に出ると頬を裂く風に混じって白いものが。雪が降っている。引き返し長靴に履き替える。踝まで雪に埋もれながら徒歩で2分の裏山にある神社に向かう。0時を少しまわったところで境内にたどりつく。参拝し、おみくじをひき納所に古いお札類を納め、境内で焚いている火の前で甘酒を啜り体を温め帰宅。帰りがけ高校生くらいの男の子五人組が、神社で配っていたお神酒の瓶を片手に「これまじ酒だよ」「やべえ超酒」「飲む?」「飲んじゃう?」と騒ぎながら口に含み「ちょ、これまじ酒」「無理、飲めねぇ」「やべえ超酒」といって口々に雪に吐きだしていたのが阿呆で楽しそうだった。
 そういえば年越しにこの神社に参拝するのは15、6年ぶり。子供の頃は年越しのお参りというと、夜更かしをしているという興奮、行き帰りの肺がひりつくような寒さ、息の白さ、ふと脇を見たときの闇の深さ、ぼんやりとした提灯の明かりに常には無くざわつく参道(そういえば子供の頃「参道」と「産道」がおなじ音だと気づいて不思議な気持ちになったのもこの神社でだった)、境内に燃え立つ炎の勢い頬をなで眼の奥を焼く熱に自分がどこか違う場所にいる心持ちになり頭がくらくらして、あちら側にいけるような気が自然としたものだけど、今はそんな感じがあまり(でもやっぱり異界感はある。ちょっと)しないことに寂しさを覚える。帰宅して本棚にあった「幻想文学」をぱらぱら見ているとこんな文章があった。

 だから、物語はまず、断片として語られはじめなくてはならない。まるで、遺跡から発掘された陶片のように、一見ばらばらに見え、それを目にした人々はその関連性を見いだすことができないかもしれない。
 しかし、断片であるがために、それは却って見えない全体を予感される力にみなぎっていなければならない。そして、たとえ全体が発掘されなくとも、断片は断片のままで充分に美しくあらねばならない。

寮美千子「『夢見る水の王国』のための覚え書き」(「幻想文学58号」p44 アトリエOCTA)

 つまりは、はやく山尾悠子の新刊でないものかという話ですよ。本当に。今年こそは。ちなみに2009年最後の読書は城戸朱理『潜在性の海へ』(思潮社)だった。今年も願わくば良い本に出合えますように。南無。